俺 流  [ Perro Dogs Home 預かり日記 ]

ラキ男のこと(8)





その日から数えて28か月と4日がたった(2013年12月29日現在)。
この間を、ラキ男はほぼ2軒の預かりボランティア宅で暮らした。
そして、ご存じのようにいまも私たちの会にいる。

預かりボランティア宅でどのような暮らしぶりをしていたか、どのようなご苦労あったかについては、それぞれの預かり日記をお読みいただきたい。

■まいにち散歩、元気なワンコ
http://doggy-doggy.net/diary/040/sfs6_diary/

■わんこ預り日記
http://ramdan.macserver.jp/diary/06/sfs6_diary/





ラキ男がわが家にやって来たのは27か月と2日がたった日だった。
7泊8日だけ暮らして去った。
私がラキ男と暮らしたのはその7泊8日だけだ。
ラキ男について何かを言う適格者があるとすれば、私などではなく、この間預かっていた2軒のボラ以外にない。
私のごく短時間の見聞で、知ったようなことを言うべきではなかろうと思う。
そう思って、この日記では、ラキ男はせいぜい通行人程度のエキストラ出演にとどめようと決めていた。

それが、なんということか……一緒に暮らして、私は何かを書かずにいられなくなってしまった。
「何かを書く」どころか、こんなにたくさん書いている。

前に私は「不憫(ふびん)」と書いたが、それだけではない。
この子には、コーギー的な魅力がいっぱいある。
いや、コーギー的とかそんなんだけじゃなくて、犬としての、命あるものとしての魅力がいっぱいなのだ。
意外にもスタンダード・シュナウザーのリンリーと通じるキャラをこの子に見つけて、嬉しくて、なつかしさがこみあげてきた。(※)
カンペイとは好一対。あまりにも対照的な個性に可笑しくてならなかった。

とどのつまり、私はこの子のことが好きになったのである。

(※)ラキ男が去ってから、犬種図鑑をよくよく読んだら、スタンダード・シュナウザーが「家畜追い犬」としてハーディングにも使われていた歴史があると知って、思わずにんまりした。


2013年12月29日(日) No.163

ラキ男のこと(7)





「犬のために庭で自由にのびのびと暮らさせてあげた。そのほうがいい」といったことを話す人もある。
そうした言い分を頭から否定することはできない。
コーギーを庭で繋留飼いするよりも、放し飼いがはるかにマシである。
それに実際、広い庭としっかりした塀があって放し飼いにできたからこそ、この老夫婦がラキ男をまがりなりにも9年間飼育できたのだと考えられる。

しかし私は思うのだが、ここでいう「犬のため」とはいったいなんなのだろう。
鼻の頭からシッポの先まで、文字どおり徹頭徹尾「人とともに」作業することを刷り込まれたこの種の犬たちを突然「お前自身のために生きろよな。あとはよろしく〜」と放りだす。
精いっぱい控えめに言っても飼い主の役割放棄、あるいは単なる骨惜しみにすぎないのではないかという気が私にはしてならない。

断っておくが、ここで私は庭で飼うことを否定しているのではない。積極的に犬とのかかわりをもたず、庭で放任したままにしておくことについて言っている。

庭で自由気ままに放任されることの弊害はもうひとつ考えられる。
犬が自らの王国の主(あるじ)になってしまいがちなのである。
人との関係が希薄になり、自分の意思にだけ忠実な生きものになる可能性がある。
このことはまた、別の環境――たとえば飼い主が変わる、災害等で制約のある環境で飼育するなど――で犬との関係を新たに築こうとするときの障害となりかねない。

ラキ男を引き取るにあたって、念のために元の飼い主に咬癖があるかを1度ならず尋ねている。咬癖の抜けないコーギー男子は少なくないから、この点にはかならず念をおす。
飼い主である老婦人はきっぱりと否定した。
「(家に入った)大工さんの顔をペロリとなめて歓迎するような子ですよ」と。


動物病院で初対面のときのラキ男


1週間後に2度目の対面。会の代表者に後ろ向きに抱っこされる。


ラキ男が無期に預けられていた動物病院で、私としてはかなり入念に身体のあちこちを触り、背中をつまんだり、仰向けに抱っこしたりしたが、咬むそぶりは見せなかった。
ただひとつ、表情が暗いのが気がかりだった。私の目を見なかった。緊張で身を固くしていた。
経験的に私は、センターや動物病院内でコーギーの様子をチェックしても、それがあまり当てにならないことを知っている。
感覚の鋭敏なこの子たちは、周囲の状況を見て自分の振る舞いを変えることもできる。
それを承知で私は、高齢だし、この子ならまず大丈夫だろう、手に負えると判断した。

そうして、この子を私たちの会が引き受けた。
預かりボラ宅の前まで車で運んできた私が、近くの空き地で少し遊ばせると、ラキ男の表情は見違えるほど明るくなっていた。嬉しそうに私の目を見た。
その瞬間、私にあった最後の懸念はかき消えていた。
この子を救けることができて本当によかったと思った。
安心して預かりボラに手渡した。
「おだやかなコーギーですよ」と。

その日のうちに預かりボラから咬傷の報告が入ったのである。


動物病院から引き取って空き地で遊ばせると表情が一変した
2013年12月25日(水) No.162

ラキ男のこと(6)





私の好きなコーギーとは、そんな犬たちだ。

だからこそ、逆算して当時70歳すぎと60代半ばという夫婦にコーギーの男の子が売られた事実に、私は少なからぬ衝撃を受けた。
キャバリアの飼育体験だけがよりどころという老夫婦が、これからの時間を一緒に過ごす相手として、これ以上ないほど間違った選択といっていいのに。
※個人的には、その年齢で子犬から飼う選択自体が、いかなる犬種であろうと、間違っていると思う。

老夫婦はおそらく、子犬時代を終えたラキ男の体力と意欲、エネルギー、あるいは自我の、想像すらしなかった強さに驚いたはずだ。
夫人は「キャバリアとは全然違った」と話していた。
庭で放し飼いにして、ベランダに犬小屋を置いた。
自分たちの生活とラキ男との関わりを小さくとどめたいと考えてに違いない。
これがコーギーの飼い方としては決定的に不適切な方法だったことに、この夫婦は、なにも気づかないまま9年間を過ごしたのである。

「退屈したコーギーは破壊的なコーギー」という「名言」がある。
この言葉は他のハーディング・ドッグに置き換え可能だ。ジャーマン・シェパード、ボーダー・コリー、グローネンダール……。

牧畜犬はのんびりと草を食む羊や牛を眺めながら平和のうちに暮らしていると漠然と考えている人は、こうした犬に穏和な性格を思い描き、期待するのかもしれない。
しかし、ハーディングの能力はもともと捕食=狩りの本能の応用変形であることを忘れてはいけない。
オオカミから受けついだ本能の深い部分を解放し、選択淘汰して磨きあげた結果が、これらハーディング・ドッグたちの原型なのである。




しかもこの犬たちは、人間の指示にはきわめて忠実に、瞬時に反応しなければならない。口笛や声、ほんの小さな身振りなど、人の発するコマンドに自らが従うだけでなく、その指示にしたがって家畜の群れをコントロールする。
片時も注意を逸らすことなく、空間的に家畜の群れを把握して、その動きを連続的に、あるいは未来予測的に察知することができる。
また、外敵(他の捕食動物、掠奪者など)から家畜を守るガードドッグの役割もこの犬たちは果たす必要があった。いちはやく危険を察知して大きな吠え声で飼い主に報せたり、追い払ったりしなければならなかった。

つまり、ひとことでいって、途方もない連中なのだ。

こうした高感度・高性能マシーンのような犬たちを何もさせずにおくと、能力とエネルギーのはけ口を求めて、破壊的活動に精をだすようなことが起こる。ひどい場合は、自己破壊的になるといわれる。自らを傷つけるような行為をおこなうことすらある。

本能的に彼らが求めている骨の折れる作業や、自他に守らせるべきルールを与えず、人との関係を希薄にしたまま、ただ庭に放っておくのは、この種のハーディング・ドッグたちにとって考えられる最悪の飼いかたであると思う。(※)

それが9年間つづいた。

十分なメンテナンスと、存分にエンジンを回転させてあげる必要のあるレーシングカーを、その能力に気づくこともしない人間が、裏庭に駐めたまま雨ざらしにするほど痛ましい光景は私には思い浮かばない。

(※)他の犬種については、また違う事情があるだろう。それについてはあらためてカンペイのところで書きたいと思う。


2013年12月23日(月) No.161

ラキ男のこと(5)


こんなのを見つけた。
インターネット上に流布している画像で、ソースは不明であるが、これは間違いなくコーギーの幼犬だろう。



こんなにかわいい生き物は明らかに犯罪的である。発禁ものだと思う。
こういう子たちがペットショップのガラスケースに入っていたら、そしてたまたま犬を飼いたいと思ってその場を訪ねていたら、「この子を手に入れたい!」という衝動に屈せずにいるのは難しいかもしれない。

そういうときには、どうか心をしずめて犬種図鑑を開いていただきたい。
お持ちでなければ図書館で閲覧してもよい。
たいていの犬種図鑑には夢でも見てるんじゃないかというくらい犬種の長所ばかり書かれているので、解説文に目を通す必要はとりあえずないだろう。
コーギーがどういう犬に分類されて、その仲間にはいったいどんな犬種があるのかを見ていただきたいのだ。

コーギーは、ハーディング・ドッグ、牧畜犬といったジャンルに分類されている。
では、ここには他にどんな犬種があるのか。
ジャーマン・シェパード、ボーダー・コリー、マリノワ、グローネンダール、オーストラリアン・キャトル・ドッグ、ラフ・コリー……。
(牧畜犬にロットワイラーやマスチフのようなガードドッグを含めている図鑑もあるが、ここではガードドッグは別格とする)

強靭無比な体力と、とびっきりの優秀性で知られている犬種ばかりである。
いずれも、そのとびっきりの優秀性は、とびっきりのトレーニングのもとでしか発揮されず、さもなければとびっきりハタ迷惑かつ、とびっきり困難になりうる犬種としても知られている(※)
いってみれば、このジャンルのどの犬も飼い主に法外な量の献身(しかも正しい方法での)を求める一方、その見返りも多大なのである。
コーギーはそうした連中のお仲間なのだ。

(※)個人的にはラフ・コリーは例外的にマイルドだと感じているが、それにしたって安易に飼うことができないという点に違いはない。


コーギーとボーダー・コリーは見かけは大違いだが、どちらもハーディング・ドッグだ


あなたはジャーマン・シェパードの子犬が、ペットショップのガラスケースに無防備に横たわっていたとして、衝動的に手に入れたいと考えるだろうか。
よほど無知無謀でなければ、そういう行動には踏み切らないはずだ。
だがコーギーの場合、その小さな体躯に目を欺かれて、衝動的に一線を超えてしまう人が少なくない。
ラキ男も間違いなくそういった例のひとつだったろう。

コーギー愛好家はなかば誇らしげに「コーギーは小型犬の皮をかぶったジャーマン・シェパードだ」と言う。
あるいは「コーギーは小型犬のかたちをした大型犬だ」とか「大型犬のハートをもった小型犬だ」といった言い方もされる。

コーギーは、扱いの容易な小型犬を探している人が飼うべき犬では本来ない。大型犬との暮らしを希望している人の選択肢にこそ入れていただきたい犬だと私は思う。
あの小さな身体いっぱい大型犬の強靭さと心意気が詰まっている。
なんて天晴れなヤツら!とは思わないだろうか。


2013年12月16日(月) No.160

ラキ男のこと(4)



ラキ男はカメラのレンズを向けると少し表情が固くなる

コーギーはよく知られているように、歴史的には牛追い犬として使われていた犬種だ。

「ヒーラー(heeler=heel「かかと」から来た言葉だろう)」と呼ばれる犬たちが1800年代の英国に存在したという。
牛を市場まで追い立てていくのがその役目だが、コーギーもそうした犬種のひとつだったらしい。
同系種のカーディガン・ウェルシュ・コーギーについて「犬種大図鑑」(ペットライフ社刊/ブルース・フォーグル著)には次のように書かれている。
「家畜のくるぶしに噛みつきながら家畜を市場に追っていく役目をしていた“ヒーラー”の本能を持っています。家畜が振り回す蹄(ひずめ)を避けられるように、地面に着くくらい低い体形をしています」

自分の数十倍もの体重がある牛の群れを追い立てるという苛烈な仕事に従事するコーギーたちは、きっすいの肉体労働者であり、恐れを知らぬ不屈の精神と酷使してもへこたれない肉体的スタミナが不可欠だったろう。

そのハーディング(群れを追い立てコントロールする)能力は歴史の向こう側に埋もれてしまっているわけではない。
少し以前に人から聞いた話なので現在の様子はわからないが、大手フライドチキン・チェーンが北海道に鶏を飼育する農場(観光農場?)を開いており、そこではコーギーが放し飼いの鶏のハーディングに活躍しているという。
その姿がいきいきとあまりに魅力的なため、見学者がこっそり連れ帰ってしまうので困っているという真偽の定かでない話も聞いた。



この無防備な寝姿を見るのは人の幸せのひとつだと思う


多くのコーギーたちは、先祖からその短く太い脚や小粒でファニーな外見を引き継いだのと同じくらい、ハーディングへの強い意欲を受け継いでいる。
それこそが私たちが愛してやまないコーギーの数々の美点をかたちづくっている原資であるのだが、一方で、家庭犬としての副作用ももたらすことになった(そもそも家庭犬として人と暮らすことを考えて作出された犬種ではまったくないのだから、このことに関してコーギーに罪はない)。

たとえば「360°ビジュアル犬種大図鑑」(インターズー刊、デビッド・アルダートン著)(※)のペンブローク・ウェルシュ・コーギーの項にはこう書かれている。
「ペンブロークはいくぶん咬みやすい傾向があります。ペンブロークは生来活発なため、これは攻撃行動ではなく本能です」
「散歩や食事を待っているときにかんしゃくを起こし、飼い主に無視されたと感じたときに、飼い主の足首を咬むことがあります。また、仲間や他の犬種とけんかしたがることがあるので、運動させるときはにはこの点を心に留めておいてください」

(※)多くの犬種図鑑と称するものが、犬種のメリットばかり並べたてているのに比べて、この犬種図鑑は犬種のデメリットをきちんと記載しようと努めている点で好感がもてる。

欧米の複数あるコーギー・レスキュー団体のサイトを覗くと、どこにもほぼ共通する言葉が書かれている。
「コーギーは初心者向けの犬ではありません」
「小柄で愛くるしい見かけから判断を誤らないでください」

なかには、わざわざ「コーギーと子供」というページを設けて、コーギーが8歳以下の子供との同居には適さないことを、コーギーに対する深い愛情を一語一語にこめながら、噛んでふくめるようにていねいに説明しているサイトもあった。
そこではこう結論する。
「そういうご家族にはスパニエルを奨めます」と――。

そう、スパニエルなのだ。まさにコッカーやキャバリアに代表される犬種である。



2013年12月13日(金) No.159

ラキ男のこと(3)




「キャバリアはとてもいい子だったのに、この子はキャバリアとは全然違った」
ラキ男と9年間一緒に暮らした飼主の言葉である。

人は犬の形態や仕草など外にあらわれたところに、直感的に惹かれてしまう。
「一目でこの子に釘付けになりました」「運命を感じた」「一目ぼれです」「脚が短くてかわいい〜」……。
なにしろペットショップで見る幼犬の殺人的なかわいさといったらない。

私は以前、セッターの子犬が繊細きわまるはかなげさで、ペットショップのガラスケースに展示されているのを見たことがある。
「わたしは何ひとつ悪いことなんかできませ〜ん。だれかここから助け出してぇ」と、ぶるぶる震えながら見る人の良心に訴えているかのようだった。
まるで地上に落ちた天使だった。
私がこの子に「運命を感じ」きれなかったのは、野外でのセッター種の悪魔的パワーを骨身にしみて知っていたからにすぎない。

犬種は本来、見た目を人の好みに合わせるために作出されたものではない。
その形態は果たすべき役割――それが現代ではほとんどすたれてしまっており、家庭犬にとっては無用でむしろ有害ですらあるとしても――のために作出された結果の一部にすぎないのである。

コーギーは私の勝手な命名によれば、「目的遂行型」の有職犬である。
決められた目的のために力のかぎり仕事をする。
人間でいうA型気質に似ているかもしれない。
生まじめで、有能に立ち働くことを自分に求め、つねに自分にテンションをかけつづけて心臓などを悪くしてしまうタイプ。お店でテキパキとした対応ができない店員にイラついたりする。
私もこれかもしれないと言うと、家族に笑われる。

コーギーは全力でコトにあたる。力の出し惜しみはしない。
小っちゃな身体にフル充填された膨大な熱いエネルギーを、急傾斜を流れ下るように一直線に発散しようとする。
迂回したり、ひるんだり、他に気を散らすことを知らず、自分が果たすべきだと信じる仕事に真っすぐ立ち向かう。


この撮影の時点でとっくに10歳を超えているはずなのに(センターからの保護犬なので正確な年齢はわからない)
全力でボールを回収する姿に変化はなかった


わが家で10年以上暮らしたコーギーの女の子を思いだす。
彼女はボール遊びをまるで自分の命をかけた厳粛な使命のようにおこなった。
私がボールを投げつづけるかぎり、全力で追いかけて、くわえて戻ってくる。絶対に自分からやめなかった。
それどころか、私がボール投げを休むと、ボールを持つ手をぐいぐいと鼻で押して「投げろ」と催促した。
ボール投げを私が打ち切ると、彼女はどさっと横になって荒い呼吸で腹を波打たせることがあった。
「なんで、そこまでやるんだよ」と私は声をかけたものだ。

10歳をすぎてもそれは変わらなかった。
しかし老いた彼女の体力がなくなり、ついにボールを追いかけ続けられなくなったとき、このコーギーの女の子はボールをくわえたまま「あ、用を思いだした」という感じで寄り道をするようになった。コースから外れて、臭いなどを熱心に嗅いで調べているフリのようなものをした。
そういうときの彼女の表情には、大試合で皆の期待にこたえられなかった一流アスリートにも似た、申しわけなさと恥辱の入り交じったものがあらわれていて(※)、私は胸が締めつけられるような思いがした。

コーギーとはそうした犬種なのである。
それがコーギーたちのたったひとつ知っている生き方なのだ。

(※)こう書くと「犬にそのような複雑で高度な情動があるはずない。犬の情動を擬人的に見るのは誤りだ」というお叱りをいただくかもしれない。そのとおりだろう。だが、自分の目に見えたものを、私はこう表現する以外になかったのだ。




Perroで保護した058のコーギーとボール追いかけっこ。
10歳も年若い子とも喜んで競り合った。

2013年12月08日(日) No.158

ラキ男のこと(2)




ラキ男は老夫婦に飼われていた。
80歳を超えたご主人が病に倒れ、介護に心身をすり減らす70代半ば過ぎの夫人にラキ男の面倒を見る余裕はなくなった。
動物病院に預けたのが預けっぱなしとなり、「もう飼うのは無理」となって、ついには健康な犬の「安楽死」という選択肢が浮上したという。
自分たちに飼う能力がなくなったその責を犬に負わせ、命で償わせるわけだ。
(もともと本当に飼う能力があったのかという疑問はここでは措く)
困った動物病院から相談を受けた私たちが、結局、この子を引き受けることになった。

私は飼主の夫人とも直接会って話している。
高齢で犬を飼おうとしたときにこの事態を考えなかったのかと尋ねた私に、夫人はこう答えた。
「本当にそう思います。ちゃんと考えるべきだった。その前に飼ったキャバリアがとてもいい子だったので、コーギーも同じだと考えたのですが、全然違っていた」

全然違っていたコーギーを、この老夫婦は持て余したのだろう、庭で放し飼いにした。私が訪ねた家にはかなり広い庭があった。
ベランダの犬小屋を寝場所にしていた。高齢になってからは夜には家屋の一隅に入れていた、という話だった。
そうやってこのコーギーは9歳まで暮らしてきたのである。

ああ……私は内心ため息をついていた。
どうして人は自ら不幸の種を蒔くのだろうか。
その刈り入れは人任せなのだ。



2013年12月02日(月) No.157