俺 流  [ Perro Dogs Home 預かり日記 ]

丸顔




名前は「大吉」になった。

その大吉は、真正面から見ると真ん丸の顔をしている。
マズルはふつうに尖って伸びているのだが、人間でいうモミアゲから頬の後ろ側あたりが「口に3つも4つも木の実を入れたリス」みたいにふくらんでいる。
リスのホッペというより、もしかしたらライオンのタテガミとかマンドリルなどのそれに近いのかもしれないが、ともかくふくらんでいる。
で、ここをぎゅっと右と左に引っ張ってみた。




こんなことをされても、大吉はさほどイヤがらない。
何日も一緒に暮らして知ったのだが、大吉は頭や体を触られるのはむしろ好きなのだ(脚拭き、添い寝を除く)。
スキンシップ好きの柴。しかも人生初対面に近い相手に対して――である。
これは素晴らしい美点だと思う。


斜めから見た本当のオレはシャキッとしてます
2020年10月10日(土) No.195

やって来た柴




柴の男の子がわが家にやって来た。
預かり前はせいぜい2週間程度のショートステイの心づもりでいたが、諸事情から譲渡が決まるまで預かることになりそうである。

柴の男子というと、これまで期間の長短あわせておそらく両手を超えるくらいの数を預かっている。
好きな犬種ではあるが、前回の預かり犬・カンペイの死が私の深いところに――自分でもその所在がつきとめられない場所に――容易には拭い去ることのできない何かを残したらしい。もう5年も前のことなのに。
積極的に長期預かりをする気持ちはなくなっていた。それをいうなら柴に限らず、どんな犬種であってもなのだが。


大きな公園に連れていくと、丈の高い雑草の生い茂る場所では、喜びいっぱい走り、嗅ぎまわって草花の匂いを体中に満たしているようだった。


やって来た柴は、これ以上ないほど柴らしい柴だった。
ほとんどの人が描くであろう柴のイメージをそのままなぞったらコイツになりました、みたいな。
ただし、その振る舞いは予想外に人なつこいのである。猛々しさというものがまったくない。
神経症的なものとも無縁。ちょっと拍子抜けした。


歩くのを拒否して寝技に持ち込む。仰向けになって両手を上下に振る。


到着して24時間内に家内の前でコロンと自分からお腹を見せた。柴の男子が、である。
さらに仰向けに転がったまま両手(両前脚)を胸の前で合わせて、クイックイと前後に振るという芸当を見せはじめた。
とくに理由も見当たらないのにひとりで勝手に始めることもあれば、「オレは歩きたくないのだ」と道路に寝転がってこのワザを繰り出すこともある。
一方で、いわゆる「シツケ」はまったく入っていなかった。マテ、スワレなどまったくできないし、そういう人との関係など考えたこともないのか、まったく堂々と無反応である。

まあ、そんなヤツであるから、こちらもいろいろ気が楽になった。
2020年10月08日(木) No.194

カンペイの異変



2012年4月28日、カンペイがはじめてわが家にやってきた日のもの問いたげな表情。
やや粗削りに「幼さ」のようなものを残していた。


カンペイの異変にはじめて気づいたのは、あれはたしか……昨年の夏の終わりころのことではなかったかと思う。
最初はほんのささいなできごとに見えた。

ある日、カンペイがかなりの量のドライフードを残した。
ポリポリと一粒一粒味わうように噛み砕く、例の柴特有の食事作法で、カンペイはいつも定量のドライフードを残さず食べていた。
フード皿にけっこうな量のフードが残るのは珍しいことだった。
体調が悪いようには見えなかった。
「残しているよ、どうしたのかね」といった会話を家内とかわしたような気がする。
フード皿をそのまま置いておいたら、カンペイは30分ほど時間をおいて戻ってきて今度は残さずに全部食べた。

仮にこの日を起点としてカンペイの終焉の日までを1本の線で結ぶなら、凹凸のあるなだらかな右肩下がりの曲線となるだろう。
それはーー山の頂から時間をかけて山道を下っていくのと似ている。
自分がいまどのような位置にあるのか、周囲は鬱蒼(うっそう)と覆われた木々に遮られて見えない。
ときどき登り道になったり、あるいは開けた平らな尾根に出て陽光が気持ちよくあたるかもしれない。
しかし振りかえればいつも、過去に自分がいた山の頂はずっと高い場所にある。
決して同じ高さには戻らないのだ。
歩けば歩くほど、確実に標高は下っていく。

いま考えれば、カンペイの終焉までの時間はそのようなものだった。



今年の8月4日に高原のドッグランで。8月はカンペイが最後のきらめきを見せた月かもしれない。
まだこうして力いっぱい走りつづけることができた。しかし写真を検分すると、日陰で伏せて休んでいるものが多いことに気づく



夏の終わりのこの日以降、似たようなことがときどき起こった。
たくさん残してあとで食べに戻ることもあれば、数粒だけ残してそのまま食べないこともあった。
やがてわが家では「カンペイのちょっと残し」と呼ぶようになった。
依然として私はなんの危惧も感じていなかった。なんでもないことのように思えた。

ごくまれに起こったことは、やがて少しずつ頻度と深度を増していく。
悪魔的にゆっくりとした足取りだった。



今年8月11日に信州にPerro里親さんをお訪ねした際に撮った写真。
お孫さんのソウちゃんに首を抱かれて、カンペイの表情が嬉しそうに、それでいて少し困ったように、やさしくゆるんでいる。私の大好きな1枚。
(ご家族の了承を得て掲載しています)
2015年11月20日(金) No.191

カンペイの死



今年の3月2日に動物病院の待合室で。
カンペイは病院から退散したくてとっておきの表情で「帰ろ」と私に訴えている


10月29日にカンペイが死んでしまったのだから、何かを書くべきだと思うのだが、1週間以上の時間がたったいまでも死の前後のことは私にはとても書けそうにない。
Perroのスタッフへの報告を書くだけで――事実の大筋を簡単にまとめたにすぎないのだが――いっぱいいっぱいになってしまうという情けないありさまである。
自分はもっと毅然とタフだと思っていた。

いまは他人の言葉を借りても許されると思う。
彼、すなわち犬はどうしようもない愚か者である。
あなたが人生のはしごを上っているのか下っているのか確かめもせず、あなたが金持ちなのか貧乏なのか、ばかなのか賢いのか、罪人なのか聖人なのか尋ねもしない。
あなたは友だち。彼にはそれで十分なのだ。
幸運だろうが不運だろうが、評判がよかろうが悪かろうが、名誉となろうが恥となろうが、彼はあなたについてゆき、あなたを慰め、あなたを守り、必要とあらば自分の命まであなたに捧げようとする。ばかで、愚かで、つまらない犬だ。(ジェローム・K・ジェローム)

※「すぐわかるあなたの犬の知能指数」(メリッサ・ミラー著/高橋恭美子訳)から適宜改行して引用。

この文章とは異なり、カンペイは「あなたを守り、必要とあらば自分の命まであなたに捧げようとする」ようなことは決してしないだろう。
むしろカンペイは、預かり主の私を頼りにし、何かのときには自分を守り、助けてくれる存在だと見ていたように思う。
だが私はそうではなかった。
私を頼るカンペイを病から助けだすこともできない無力な男でしかなかった。
カンペイに死なれておろおろメソメソしている「ばかで、愚かで、つまらない人間」なのである。
揃いも揃ってまったく、似合いの犬と人間だった。


1年前の10月17日にドッグランで。さんざん遊んで充足した表情を浮かべている

1時間でいいからカンペイと草の上で過ごしたあの時間に戻れないものかと思う。
私はカンペイの横にただ座り、ときおりカンペイの後頭部のふわふわした毛に顔をつけて田舎臭いにおいを嗅ぐ。
カンペイは尖った鼻先を上げて振り返り、満ち足りたまなざしで私を見るに違いない。


■この間、カンペイの病状についてご報告できなかったことをお詫びします。
2015年11月11日(水) No.190

ミュージック・ビデオ


唐突ですが、いつも拝見しているブログで紹介されていたミュージック・ビデオにウウッときたので、ここに転載します。

https://www.youtube.com/watch?v=-ncIVUXZla8

なにも書きません。ただ観ていただければと。

(注意)ビデオに登場している犬とカンペイには、とくに関係や類似性は見いだせませんでした。
2015年07月17日(金) No.189

カンペイ海に行く(1)




ここに書いたのは1年半も前の話である。
お前の預かり日記は時間をどんどんさかのぼってタイムトラベルしてるのかと呆れられても当然なのだが、書きかけて放っておいたのがどうにも気持ち悪く、書き散らした虫食い文章に1年半という時差で補足し、恥をしのんでアップすることにした。
ですから皆さんがお読みのエピソードは1年半前に起こった昔のできごとであります。

公園やドッグランに出かけて、たびたびカンペイが大喜びする姿を見て、次は海がいいんじゃないかと漠然と思った……。

で、元旦(2014年の、ですけど)に車で千葉の富津岬に出かけたのである。家内と娘、そして私とカンペイで。
見晴らすかぎりの砂浜で思いきり遊び喜ぶカンペイを見るのはさぞ楽しかろうと。
浅慮であった。


「トゥルーへの手紙」オフィシャルサイトから


「トゥルーへの手紙」といういっぷう変わった映画をご覧になっただろうか。
この映画には全編を貫く一本の物語があるわけではない。
いろいろな映像がつぎはぎされ、そこに「反戦」「友愛」「反差別」「生と死」「若さと老い」といった通奏音が奏でられるなか、画面いっぱいに登場しては私たちに圧倒的な印象を与えるのはもっぱら「犬たち=善なる生の象徴」の役目なのである。
私などはもう、何頭ものゴールデンが美しい海岸を嬉々として爆走するシーンを見ただけで胸がいっぱいになってしまった。

ゴールデンたちは渚を走り、砂まみれになって遊び、海に突進し、潮水をかぶり、サーフボードに乗る。
これっぽっちもまじりっけのない生の謳歌。制作者のいう「人生のあらゆる瞬間につなげたいと願う、かけがえのない瞬間」の無上に美しい切り絵の数々である。
(そのゴールデンたちみんな、制作者――写真家だという――の飼い犬らしい。なかの1頭がトゥルー。なんて素晴らしい犬まみれ生活だろう)


「トゥルーへの手紙」オフィシャルサイトから


「砂浜で遊ぶ犬と私」というシチュエーションは、多くの飼い主が一度は(あるいは何度となく)夢見る光景ではないだろうか。
だがカンペイはトゥルーではなかったし、私はトゥルーの飼い主ではなかった。
2015年07月09日(木) No.188

うざっ





もう1か月以上前の話だから旧聞に属するが、カンペイが通院している協力動物病院で、子犬のやんばるチャン(募集番号380)にバッタリ出あった。
カンペイが病院通いしている理由は、もう少しあとでまとめて書く機会があると思う。

やんばるは沖縄から姉妹犬(379)と一緒に飛行機に乗ってやってきた。もちろんスーパーシートではなくカーゴデッキで。
私はこの子たちが到着してからそれほど日をおかずに一度ふれあっている。
それから3か月の月日がたっていた。ひと目見て、身体が大きくなっているのに驚かされた。
久しぶりに会ったらあどけない幼児がピカピカの小学1年生に変身していた感じといえばいいか。

病院の待合室でやんばるは、その莫大な好奇心の貯水池をカンペイに向けて蛇口全開した。
進退窮まったのはカンペイである。



「ねえねえ、おじちゃん、どうしてそんなに真っ黒なの?」
「ねえねえ、おじちゃん、飛行機乗ったことある? アタシあるよ」
「ねえねえ、おじちゃん、注射したことある? アタシあるよ」
「ねえねえ、おじちゃん、沖縄って知ってる? アタシ知ってるよ」
――うざっ。えらいのと出会っちゃったなぁ。




「ねえねえ、おじちゃん、追いかけっこしよ」
「ねえねえ、おじちゃん、公園行こ」
「ねえねえ、おじちゃん、いつ遊んでくれる? 何月何日何時何分?」
「ねえねえ、おじちゃん、ウチに来ていいよ。いつ来るの?」
――悪夢かよ。

何を隠そうカンペイの最大の苦手は子犬の女の子だ。
男の子が相手の場合はウガッと蹴散らすことができるカンペイも、相手が女の子だといつも受け身に立たされ、逆・上から目線でよくてタメ口扱いの相手になりさがってしまう。
父性や騎士道精神のようなものがあるはずもないので、不思議である。

カンペイにとっては幸いなことに、ほどなくしてやんばるチャンは診察台に拉致されていったのでした。




最初にあったときのやんばるは、旺盛な活動性(多動性)といくぶんシャイなところが密に絡みあっているように見え、私は「この子には少し難しいところがあるのかもしれない」と思った記憶がある。
しかしこの日あったやんばるは見違えていた。
活動性はそのままに、不要にシャイなところ(過敏さといいかえてもよいかもしれない)がきれいに抜け落ちていた。
動物病院の待合室でやんばるは、怖がって逃げ隠れしようとすることもなく、声をだすこともせず、他の犬に神経質に反応することもなく、子犬にしては十分すぎるほど落ち着いて振る舞っていた。かといってその平常心は子犬の本来的な好奇心の発露をすこしも妨げていないのである。

私は感心した。
やんばるに対してというより、この間この子を預かっていたボランティアさんの努力とご苦労と手腕に対して。
どうやったら、こんなにいい子に育つのか……。

まあ、私が何かを書くより、この子の預かり日記
「中継地点 ~Dogs Spot~」をお読みいただくほうがずっと早い。
ここに書かれている内容は、活動的な子犬を飼育しようという人への有益な手がかりになると思う。
もちろんこれがそのまま飼育テキストになるわけでは全然ないが、きちんと読みさえすれば、そこからくみとれるものは決して小さくないはずだ。

結局、犬がどう育つかは飼い主の接し方に多く(全部ではない)かかっているのだという当たり前の事実を再認識させられた。
あ、カンペイは別ですけど……(察し希望)。
2015年07月02日(木) No.187

オラ行かねぇ!





このところ夏を思わせる陽気の日が何日かあった。
カンペイら柴は全身着ぶくれ状態の被毛をまとっているから、暑さは当然苦手としている。
寒いのもあまり好きではないようだが。

5月の日曜日、午前10時をまわってから散歩に出たら、直射日光が想像以上に厳しかった。
まだ5月なのだからと思って油断し、家を出るのが遅れたことを軽く後悔した。
カンペイと大きな日陰に逃げこんで、ふと見ると20メートル先の日陰で柴が転がっている。



歩くのを全身で拒否しているらしい。
飼い主さんの困惑ぶりが遠くから手に取るようにわかる。
困ったものですなぁ。

で、私の足もとを見ると、カンペイがほらこんなことになっている。



「オレ、ぜってぇ日なたに行かないからね」
と身体を投げだして歩行拒否の姿勢を示している。
そういえば、だいぶ以前に別の団体で長期預かりした柴の文太がやはり散歩の途中に突然「オラ行かね!」と座りこみ、それ以上進むのをしばしば拒否したものだった。


ガッと両脚を拡げた文太の男性的な歩行固辞ポーズ

文太は若かったが心臓に軽い異常があった。
私はそのせいで歩くのがシンドくなったのだろうと思って、その都度抱っこして家まで連れ帰った。
おとなしく私にしがみつく文太を抱っこして歩くのは楽しくもあった。

その後しばらくして、文太の座り込みにある法則があることが判明した。
きまって車の交通量の多い道路をわたろうとする直前に、座り込んだのだった。心臓ではなかった。

えっ、カンペイはその後どうしたかって?
私が抱っこして公園の草地まで連れていきました。
2015年05月17日(日) No.186

自撮り


「自撮り」というものが流行っているそうだ。
私も流行には敏感なほうだから、さっそく自撮りしてみることにした。
カンペイと一緒にパシャッと1枚。



下は私の「自撮り」期待イメージ(カシオHPより)

な、なにか違ってないか。

暗い。暗すぎる。
この写真にタイトルを付けるとすれば「暗がりから呼ぶ声2つ」または「老年うんこ座りヤンキーの悲哀」あたりになる可能性すらある。
まあ、カンペイも私もシャイだから、写真を撮られることにあまり上手ではないのだ。(自分で撮ったわけだが)

カンペイは私などよりもはるかにシャイだから、たとえば、これは以前にも日記に書いたが、私が親愛の情いっぱいに正面から顔を近づけると思いきり顔をそむけるのである。
その光景をおもしろがって家内がiPhoneで撮ったのが次の1枚(それにしてもiPhoneがおそろしくよく写るのには毎度驚かされる)。



首が回る角度の限界までそむける

顔をそむける角度は90度どころか、軽く120度くらいは回っている。
ここまでそむけられると、私だって若干胸が痛むのだよ。
断っておくが、これはたまたまの話ではない。カンペイはほぼ100パーセント確実に顔をそむける。
まれに正面から私の鼻をペロリとなめたりすることがあるが、それはきわめて例外的なできごとに属するのだろう。

じつはわが家に何回か寄宿したことのある柴男子の三平(以前に所属していた団体で東京都のセンターから引き出した子)も、こういう場合にはやはりカンペイ同様、思いきり顔をそむけたのである。
ただ三平にはなんというか、ある種のサービス精神があって、しばしば自分のほうから近づいてきて私の顔をなめようとしてくれた。



たいていだらだらしている三平とカンペイ

三平が私に親愛の情を表明しようと決心したときには(誇張ではなく、新しい行動のためには、三平の場合、決心が必要になる)、私のそばにきて、口を近づけてペロペロと舌でなめる動作をする。
ただし三平の舌は私の頬から1センチ程度の距離に浮き、決して私の肌には触れない。口から突き出たその舌先は宙を上下するだけだ。
私の顔のすぐそばで、無表情に、しかしひたむきに舌を出し入れしつづけている犬の顔があるのは、なんとも不思議な光景である。
私は三平のこの親愛行為を「エアペロペロ」と命名した。

数日がたち、ついに三平の舌が1センチの距離を克服して私の頬に接するときがきた。
三平にとっては、想像を絶する意志の力が必要だったらしい。
(翌年ふたたび寄宿したときには、最初から私の頬に三平の舌が届いたことはご報告しておかなければなるまい)




三平は薄い雲越しに届く冬の弱い日差しみたいな性格の柴だった。
明暗の強烈さはどこにもなく、色合いはむしろセピアがかったモノクロームであって、乳白色のやわらかさでいつもわずかに温かいものを周囲に放射していた。

1週間ほどのわが家での寄宿を終え、三平を家まで車で送ると、迎えに出た家族との再会に大喜びするようなことは表向き決してしなかった、「別に〜」と柴的ダンディズムを貫いた。

あるとき、三平を迎えに出てきた幼い娘さんが転んで大泣きしたことがある。三平は無表情のままその女の子に近づくと、涙で濡れた頬をそっとなめた。
「いたらないヤツだなあ。ほら大したことないだろ」というふうに。
神の目をもっていたら、その瞬間、素晴らしくあたたかなものの放射が光のように見えたに違いない。
自分にとってたいせつな家族に見せる、最小の身振りの、これが柴の感情表現なのである。

それから何年も経ずして三平は悪性の腫瘍で亡くなった。
犬の命はあまりに短い。
2015年02月11日(水) No.185

柴の謎(2)




上のような光景が公園で2頭の子犬によって熱心に演じられているとする。
まあ、尋常ではない光景ではあるにしても、周囲の成犬たちはたいていの場合、「オレ関係ないっスから」というスタンスをとる。
まれに「じゃかしい!」と吠える子があったり、関心を持って近づく子もあるかもしれないが、それは少数派だろう。

私が不思議に思った柴たちなのだが、揃って2頭の活劇を熱心に観ているのである。こんな具合に。



この子は黒柴ですが、カンペイではありません

これをもう少し引いた位置から撮影したのが次の写真。
物見高く見物しているのは柴ばかりである。



「なんだ、なんだ」「この子たち頭おかしいんですかね」と熱心に見やる柴。手前の黒柴がカンペイ

さらにこのうちの1頭は、いつの間にか近接し、文字どおり「齧り付き(かぶりつき)」の位置に座して2頭の組んづほぐれつに見入っている。
こんな具合。


大相撲でいえば土俵からお相撲さんが転げ落ちてくる「砂かぶり」で観戦する柴。
ハスキーがカパッと開いた口を覗きこむかのように


柴って尽きせぬ謎だ。
2015年02月05日(木) No.184