俺 流  [ Perro Dogs Home 預かり日記 ]

ラキ男のこと(3)




「キャバリアはとてもいい子だったのに、この子はキャバリアとは全然違った」
ラキ男と9年間一緒に暮らした飼主の言葉である。

人は犬の形態や仕草など外にあらわれたところに、直感的に惹かれてしまう。
「一目でこの子に釘付けになりました」「運命を感じた」「一目ぼれです」「脚が短くてかわいい〜」……。
なにしろペットショップで見る幼犬の殺人的なかわいさといったらない。

私は以前、セッターの子犬が繊細きわまるはかなげさで、ペットショップのガラスケースに展示されているのを見たことがある。
「わたしは何ひとつ悪いことなんかできませ〜ん。だれかここから助け出してぇ」と、ぶるぶる震えながら見る人の良心に訴えているかのようだった。
まるで地上に落ちた天使だった。
私がこの子に「運命を感じ」きれなかったのは、野外でのセッター種の悪魔的パワーを骨身にしみて知っていたからにすぎない。

犬種は本来、見た目を人の好みに合わせるために作出されたものではない。
その形態は果たすべき役割――それが現代ではほとんどすたれてしまっており、家庭犬にとっては無用でむしろ有害ですらあるとしても――のために作出された結果の一部にすぎないのである。

コーギーは私の勝手な命名によれば、「目的遂行型」の有職犬である。
決められた目的のために力のかぎり仕事をする。
人間でいうA型気質に似ているかもしれない。
生まじめで、有能に立ち働くことを自分に求め、つねに自分にテンションをかけつづけて心臓などを悪くしてしまうタイプ。お店でテキパキとした対応ができない店員にイラついたりする。
私もこれかもしれないと言うと、家族に笑われる。

コーギーは全力でコトにあたる。力の出し惜しみはしない。
小っちゃな身体にフル充填された膨大な熱いエネルギーを、急傾斜を流れ下るように一直線に発散しようとする。
迂回したり、ひるんだり、他に気を散らすことを知らず、自分が果たすべきだと信じる仕事に真っすぐ立ち向かう。


この撮影の時点でとっくに10歳を超えているはずなのに(センターからの保護犬なので正確な年齢はわからない)
全力でボールを回収する姿に変化はなかった


わが家で10年以上暮らしたコーギーの女の子を思いだす。
彼女はボール遊びをまるで自分の命をかけた厳粛な使命のようにおこなった。
私がボールを投げつづけるかぎり、全力で追いかけて、くわえて戻ってくる。絶対に自分からやめなかった。
それどころか、私がボール投げを休むと、ボールを持つ手をぐいぐいと鼻で押して「投げろ」と催促した。
ボール投げを私が打ち切ると、彼女はどさっと横になって荒い呼吸で腹を波打たせることがあった。
「なんで、そこまでやるんだよ」と私は声をかけたものだ。

10歳をすぎてもそれは変わらなかった。
しかし老いた彼女の体力がなくなり、ついにボールを追いかけ続けられなくなったとき、このコーギーの女の子はボールをくわえたまま「あ、用を思いだした」という感じで寄り道をするようになった。コースから外れて、臭いなどを熱心に嗅いで調べているフリのようなものをした。
そういうときの彼女の表情には、大試合で皆の期待にこたえられなかった一流アスリートにも似た、申しわけなさと恥辱の入り交じったものがあらわれていて(※)、私は胸が締めつけられるような思いがした。

コーギーとはそうした犬種なのである。
それがコーギーたちのたったひとつ知っている生き方なのだ。

(※)こう書くと「犬にそのような複雑で高度な情動があるはずない。犬の情動を擬人的に見るのは誤りだ」というお叱りをいただくかもしれない。そのとおりだろう。だが、自分の目に見えたものを、私はこう表現する以外になかったのだ。




Perroで保護した058のコーギーとボール追いかけっこ。
10歳も年若い子とも喜んで競り合った。

2013年12月08日(日) No.158