俺 流  [ Perro Dogs Home 預かり日記 ]

かりそめの譲歩


命じる声にテツは微動だにしなかった。
か細くなったとはいえ、依然として唸り声は続いている。
しかし、その目には薄い影が差しこんでいた。
「なんだよ、このオッサン、変人かよ。厄介なことになってきちゃったゾ」と。

「出せ」と繰り返す。
次には「出して」と少しトーンをやわらげて、石のように固まっているテツの頭や体を構わず手でなでてみる。
能面のように無表情になったテツの目に差しこむ影がいよいよ濃くなってきた。
唸り声は止まっている。



だいぶ以前のことだが、こういう目を見たことがある、人間の男の子に。
世界中を相手に突っ張っているうち、気がついたらドツボにはまっていた。しかし自分から折れるのはメンツが許さない。目から涙がこぼれ落ちそうだが、泣いたらコケンにかかわる。進退窮まるとはこのことだ……。
いままさに瀬戸際にいる――泣きだすか、ここで折れるか、その両方ともか。

テツは泣かない。折れる以外の道はない。
ポトリと牛骨を口から出した。「しかたねぇなあ。今回はまけてやるよ」と。

ホメまくってから、今度はオヤツを用意してテツに牛骨をふたたび与える。
あとは物々交換である。
私のリクエストにこたえて何度でもテツは牛骨を渡した。

これでめでたく一件落着、といいたいところだが、テレビドラマ以外の現実世界はそれほどシンプルではない。
次にはもう一度リセットして、やり直しとなる。
なにしろテツはこの手法で2、3年、うまいことやってきたのだ。
何度でも試してみる価値はあると考えているに違いない。
2009年09月04日(金) No.45

若オスという存在



夏も終わる

テツのモノに対する執着がひどくて、飼育が難しいように誤解されては困るので、ここで申し添えておくと、テツの日常生活の99パーセント以上にはなんの問題もない。
執着が問題となるのは1パーセントにも満たない例外的な事例なのである。
その例外的な事例をこれからお知らせしようと思う。
腫れ物に触れぬよう、そっとやり過ごすことも不可能ではないが、しかし、その1パーセント未満を放置しておくのはいけないと思う。理由はあとで書く。

少し前の日記に書いたとおり、テツが牛骨をくわえているとき、手をテツの口に近づけると唸り声をあげた。
頭に触れると、日ごろの善人ぶりはどこへやら、マズルに皺を寄せた。今回は明らかに威嚇の表現である。
「それ以上くると、オレ、やっちゃうよ」と。

以前、♂の大型犬の飼い主さんから聞いた話を思いだした。
「男の子はね、食い物のこととオンナのことになると、突然、見境いがなくなるんですよ」
見境いがなくなるというのは、バカオス同士のケンカ沙汰のことだ(若オスのほとんどは愛すべきバカオスである)。
テツが女性問題でトラブルを起こしたという話は聞いてないが、いったん口に入れた食べ物についてかなり頑なな考えを持っているらしいことは、よくわかった。


広角レンズで写したため、顔が縦長のスマートテッちゃん

私見だが、いかなる場合でも一緒に暮らす犬に咬まれるのは避けるべきだと思う。
犬に咬まれて眉ひとつ上げないタフな人間であれば、話は違ってくるかもしれない。しかし、ほとんどの人間は咬まれるととっさに大きなリアクションをする。
恐怖と痛みでとび退くか、または発作的な怒りによって粗暴に対応する。
どちらも犬に非常によくない影響を与えると私は思う。

幸いにも、テツが牛骨に強い執着を示して私に唸り声をあげるだろうことは、ショートステイ先からの情報によって、ある程度予期できていた。
私は手近にバーベキュー用の耐熱手袋を用意しておいた。
強力な顎と歯を持った大型犬が本気咬みすれば――テツが本気咬みする可能性は皆無だろうが――耐熱手袋ぐらいではダメージは避けられないことは承知している。
分厚い耐熱手袋を私が着けるのは、少しでも恐れや逡巡をなくしてテツに接するためだ。
恐怖や怯えは言語より雄弁に相手に伝わる。
自信と気魄(きはく=「魄」はたましいの意味だから、「気迫」よりいいね)を全身から発散させながら、テツに向かわなくてはならない。
耐熱手袋を着けた左手を差しだし、精いっぱいドスを利かせて、決然と、しかし静かな声でテツに命じた。
「出せ」
2009年09月04日(金) No.44