俺 流  [ Perro Dogs Home 預かり日記 ]

カンペイの異変



2012年4月28日、カンペイがはじめてわが家にやってきた日のもの問いたげな表情。
やや粗削りに「幼さ」のようなものを残していた。


カンペイの異変にはじめて気づいたのは、あれはたしか……昨年の夏の終わりころのことではなかったかと思う。
最初はほんのささいなできごとに見えた。

ある日、カンペイがかなりの量のドライフードを残した。
ポリポリと一粒一粒味わうように噛み砕く、例の柴特有の食事作法で、カンペイはいつも定量のドライフードを残さず食べていた。
フード皿にけっこうな量のフードが残るのは珍しいことだった。
体調が悪いようには見えなかった。
「残しているよ、どうしたのかね」といった会話を家内とかわしたような気がする。
フード皿をそのまま置いておいたら、カンペイは30分ほど時間をおいて戻ってきて今度は残さずに全部食べた。

仮にこの日を起点としてカンペイの終焉の日までを1本の線で結ぶなら、凹凸のあるなだらかな右肩下がりの曲線となるだろう。
それはーー山の頂から時間をかけて山道を下っていくのと似ている。
自分がいまどのような位置にあるのか、周囲は鬱蒼(うっそう)と覆われた木々に遮られて見えない。
ときどき登り道になったり、あるいは開けた平らな尾根に出て陽光が気持ちよくあたるかもしれない。
しかし振りかえればいつも、過去に自分がいた山の頂はずっと高い場所にある。
決して同じ高さには戻らないのだ。
歩けば歩くほど、確実に標高は下っていく。

いま考えれば、カンペイの終焉までの時間はそのようなものだった。



今年の8月4日に高原のドッグランで。8月はカンペイが最後のきらめきを見せた月かもしれない。
まだこうして力いっぱい走りつづけることができた。しかし写真を検分すると、日陰で伏せて休んでいるものが多いことに気づく



夏の終わりのこの日以降、似たようなことがときどき起こった。
たくさん残してあとで食べに戻ることもあれば、数粒だけ残してそのまま食べないこともあった。
やがてわが家では「カンペイのちょっと残し」と呼ぶようになった。
依然として私はなんの危惧も感じていなかった。なんでもないことのように思えた。

ごくまれに起こったことは、やがて少しずつ頻度と深度を増していく。
悪魔的にゆっくりとした足取りだった。



今年8月11日に信州にPerro里親さんをお訪ねした際に撮った写真。
お孫さんのソウちゃんに首を抱かれて、カンペイの表情が嬉しそうに、それでいて少し困ったように、やさしくゆるんでいる。私の大好きな1枚。
(ご家族の了承を得て掲載しています)
2015年11月20日(金) No.191

カンペイの死



今年の3月2日に動物病院の待合室で。
カンペイは病院から退散したくてとっておきの表情で「帰ろ」と私に訴えている


10月29日にカンペイが死んでしまったのだから、何かを書くべきだと思うのだが、1週間以上の時間がたったいまでも死の前後のことは私にはとても書けそうにない。
Perroのスタッフへの報告を書くだけで――事実の大筋を簡単にまとめたにすぎないのだが――いっぱいいっぱいになってしまうという情けないありさまである。
自分はもっと毅然とタフだと思っていた。

いまは他人の言葉を借りても許されると思う。
彼、すなわち犬はどうしようもない愚か者である。
あなたが人生のはしごを上っているのか下っているのか確かめもせず、あなたが金持ちなのか貧乏なのか、ばかなのか賢いのか、罪人なのか聖人なのか尋ねもしない。
あなたは友だち。彼にはそれで十分なのだ。
幸運だろうが不運だろうが、評判がよかろうが悪かろうが、名誉となろうが恥となろうが、彼はあなたについてゆき、あなたを慰め、あなたを守り、必要とあらば自分の命まであなたに捧げようとする。ばかで、愚かで、つまらない犬だ。(ジェローム・K・ジェローム)

※「すぐわかるあなたの犬の知能指数」(メリッサ・ミラー著/高橋恭美子訳)から適宜改行して引用。

この文章とは異なり、カンペイは「あなたを守り、必要とあらば自分の命まであなたに捧げようとする」ようなことは決してしないだろう。
むしろカンペイは、預かり主の私を頼りにし、何かのときには自分を守り、助けてくれる存在だと見ていたように思う。
だが私はそうではなかった。
私を頼るカンペイを病から助けだすこともできない無力な男でしかなかった。
カンペイに死なれておろおろメソメソしている「ばかで、愚かで、つまらない人間」なのである。
揃いも揃ってまったく、似合いの犬と人間だった。


1年前の10月17日にドッグランで。さんざん遊んで充足した表情を浮かべている

1時間でいいからカンペイと草の上で過ごしたあの時間に戻れないものかと思う。
私はカンペイの横にただ座り、ときおりカンペイの後頭部のふわふわした毛に顔をつけて田舎臭いにおいを嗅ぐ。
カンペイは尖った鼻先を上げて振り返り、満ち足りたまなざしで私を見るに違いない。


■この間、カンペイの病状についてご報告できなかったことをお詫びします。
2015年11月11日(水) No.190