俺 流  [ Perro Dogs Home 預かり日記 ]

自撮り


「自撮り」というものが流行っているそうだ。
私も流行には敏感なほうだから、さっそく自撮りしてみることにした。
カンペイと一緒にパシャッと1枚。



下は私の「自撮り」期待イメージ(カシオHPより)

な、なにか違ってないか。

暗い。暗すぎる。
この写真にタイトルを付けるとすれば「暗がりから呼ぶ声2つ」または「老年うんこ座りヤンキーの悲哀」あたりになる可能性すらある。
まあ、カンペイも私もシャイだから、写真を撮られることにあまり上手ではないのだ。(自分で撮ったわけだが)

カンペイは私などよりもはるかにシャイだから、たとえば、これは以前にも日記に書いたが、私が親愛の情いっぱいに正面から顔を近づけると思いきり顔をそむけるのである。
その光景をおもしろがって家内がiPhoneで撮ったのが次の1枚(それにしてもiPhoneがおそろしくよく写るのには毎度驚かされる)。



首が回る角度の限界までそむける

顔をそむける角度は90度どころか、軽く120度くらいは回っている。
ここまでそむけられると、私だって若干胸が痛むのだよ。
断っておくが、これはたまたまの話ではない。カンペイはほぼ100パーセント確実に顔をそむける。
まれに正面から私の鼻をペロリとなめたりすることがあるが、それはきわめて例外的なできごとに属するのだろう。

じつはわが家に何回か寄宿したことのある柴男子の三平(以前に所属していた団体で東京都のセンターから引き出した子)も、こういう場合にはやはりカンペイ同様、思いきり顔をそむけたのである。
ただ三平にはなんというか、ある種のサービス精神があって、しばしば自分のほうから近づいてきて私の顔をなめようとしてくれた。



たいていだらだらしている三平とカンペイ

三平が私に親愛の情を表明しようと決心したときには(誇張ではなく、新しい行動のためには、三平の場合、決心が必要になる)、私のそばにきて、口を近づけてペロペロと舌でなめる動作をする。
ただし三平の舌は私の頬から1センチ程度の距離に浮き、決して私の肌には触れない。口から突き出たその舌先は宙を上下するだけだ。
私の顔のすぐそばで、無表情に、しかしひたむきに舌を出し入れしつづけている犬の顔があるのは、なんとも不思議な光景である。
私は三平のこの親愛行為を「エアペロペロ」と命名した。

数日がたち、ついに三平の舌が1センチの距離を克服して私の頬に接するときがきた。
三平にとっては、想像を絶する意志の力が必要だったらしい。
(翌年ふたたび寄宿したときには、最初から私の頬に三平の舌が届いたことはご報告しておかなければなるまい)




三平は薄い雲越しに届く冬の弱い日差しみたいな性格の柴だった。
明暗の強烈さはどこにもなく、色合いはむしろセピアがかったモノクロームであって、乳白色のやわらかさでいつもわずかに温かいものを周囲に放射していた。

1週間ほどのわが家での寄宿を終え、三平を家まで車で送ると、迎えに出た家族との再会に大喜びするようなことは表向き決してしなかった、「別に〜」と柴的ダンディズムを貫いた。

あるとき、三平を迎えに出てきた幼い娘さんが転んで大泣きしたことがある。三平は無表情のままその女の子に近づくと、涙で濡れた頬をそっとなめた。
「いたらないヤツだなあ。ほら大したことないだろ」というふうに。
神の目をもっていたら、その瞬間、素晴らしくあたたかなものの放射が光のように見えたに違いない。
自分にとってたいせつな家族に見せる、最小の身振りの、これが柴の感情表現なのである。

それから何年も経ずして三平は悪性の腫瘍で亡くなった。
犬の命はあまりに短い。
2015年02月11日(水) No.185

柴の謎(2)




上のような光景が公園で2頭の子犬によって熱心に演じられているとする。
まあ、尋常ではない光景ではあるにしても、周囲の成犬たちはたいていの場合、「オレ関係ないっスから」というスタンスをとる。
まれに「じゃかしい!」と吠える子があったり、関心を持って近づく子もあるかもしれないが、それは少数派だろう。

私が不思議に思った柴たちなのだが、揃って2頭の活劇を熱心に観ているのである。こんな具合に。



この子は黒柴ですが、カンペイではありません

これをもう少し引いた位置から撮影したのが次の写真。
物見高く見物しているのは柴ばかりである。



「なんだ、なんだ」「この子たち頭おかしいんですかね」と熱心に見やる柴。手前の黒柴がカンペイ

さらにこのうちの1頭は、いつの間にか近接し、文字どおり「齧り付き(かぶりつき)」の位置に座して2頭の組んづほぐれつに見入っている。
こんな具合。


大相撲でいえば土俵からお相撲さんが転げ落ちてくる「砂かぶり」で観戦する柴。
ハスキーがカパッと開いた口を覗きこむかのように


柴って尽きせぬ謎だ。
2015年02月05日(木) No.184

柴の謎(1)





カンペイとの暮らしも2年半を超えた。
5年前に亡くなった子を最後に、わが家では犬を飼っていない。
この会では預かり犬は1家庭に1頭が原則だから、2年半も1頭暮らしをつづけているカンペイはもうほとんどわが家の飼い犬のようなものである。

※とはいえ、預かり犬にはどうしても自分の家の犬とは違う配慮が必要であって、まったく同じとはいえない。

たまにショートの子が寄宿すると、なんともいえない新鮮さを感じることがある。
「ああ、犬ってこうだったよな」と忘れていたたいせつなものを思いだす気分がする。

というのもカンペイには和犬の流儀があって、洋犬とは行動原理が違う。
この違いはおそらく洋犬ひとすじに暮らし、洋犬を飼うお友だちとだけ触れ合っている善男善女のみなさんにはとうてい理解できないほどのものである。
私にもときどき理解できない。

そうした最近の私にとって、リロ(募集番号370。新しい飼い主さんのもとでバジルに改名)は新鮮どころか発見に近い生きものだった。
カンペイとはほぼ180度位相のズレた犬といっていい。

リロを見ていると――つまりジャック・ラッセル・テリアの子犬を見ているわけだが――私はチャーチルの有名な演説の1節を思いだす。

we shall fight in the fields and in the streets, we shall fight in the hills……
(われわれは野で、街で、丘で戦う)

リロの場合、戦い=取っ組み合い=遊びなわけだし、その相手は犬である。
預かりボラさんのご報告によれば、はじめのころリロは散歩中に出会うすべての犬が自分と遊ぶべきだと考えていたようだが、大半の成犬から激しく邪険にされるという経験を必要以上に積んだ後、その考えを撤回し、同年配の遊び友だちを選んで集中的に取っ組み合いをおこなうようになった。



あたしたち女の子同士。仲よし。格闘家。身体を張った野蛮な遊びが大好き

なかでもよく遊んだ(戦った)のが、1、2か月年長のハスキーの女の子だった。
預かりボラさんのお宅がわが家からそう遠くなく、散歩コースが重なっていたので、ときどきその2頭の取っ組み合いを観戦することがあった。
いやこれはもうゴジラ対アンギラスですよ。間違いなくすごい見ものだった。
互いに上となり下となり、ヨダレと泥まみれとなって、えんえんと終わらない。
感心させられるのは、柔道だったら対戦できないほどの危険な体格差が2頭にはあるのに、全力でしかも対等に遊べるのである。
どちらかが大泣きして後味の悪い終わり方をするなんていう人間の子ども同士のようなことは起きない。
こういうときの犬の能力は素晴らしいとしかいいようがない。




一見死闘。しかし決してどちらも傷つかない。上となり下となりエンドレスでつづく

で、私が不思議に思うのは、こうした激しい取っ組み合い遊びを間近にしたときの(カンペイを含む)柴の態度なのである。
2015年02月04日(水) No.183