俺 流  [ Perro Dogs Home 預かり日記 ]

友だち1万人計画?




他者と感情を共有できるボニーだが、たいへんありがた迷惑なことには、感情の共有を他者に強いることも少なくない。
「楽しいね〜」→「楽しいだろ」→「一緒に楽しもうぜ、おらおら」

ヨダレだらけのコングをくわえてきては、寝転がってテレビを観ている私のお腹の上に繰り返し落とすのも、鼻先でぐいぐいと人の手を押し上げるのも、いきなり襲いかかってくるのも、楽しい気分を共有しようとお誘いくださっているわけである。
こちらの都合にお構いなく。

一般にラブは肉体的痛みに対しておそろしいほど鈍感であるから、お誘いのモーションも本人はそれと意識せず暴力的になってしまうことがある。
ボニーの美点は、若いラブにしては(←ここ大事)、ほとんど暴力的でないことだ。
ときどきお訪ねするお隣の実家では、「ボニちゃんは、乱暴じゃないところが本当にいい子だねえ」と何度も称賛された。
乱暴でないというだけで称賛されるのが、若いラブである。



▲前の預かり犬のユーリとも、すぐにお友だち


そして、その一見すると楽天的で暴力的な振る舞いによって見過ごされがちなのだが、感情の共有を相手によって拒まれたり無視されるとラブは、思いがけず落ちこむことがある。
余りある感情が行き場を失って、途方に暮れるのである。
表現が妥当かどうかはわからないが、ラブは傷つくことができる犬なのだ。
その心の「擦り傷」は、明朗な行動性の裏側に腰をかがめて存在する。
家族の団欒をヨソに、家の外でポツンと孤独に繋留飼育するのは、ラブにとって虐待に等しい。

ボニーは、人間が大好きだが、たぶん犬はもっと好きだ。
娘が高校生だった時分に、部屋の壁に「友だちを少なくとも100人つくる」と書いた紙が貼ってあった。若さって、いいものである。
ボニーの場合は、「友だち1万人計画」を達成しようと考えている可能性がある。
相手がどんな犬でも、友だちになりたくて、遊びたくて、もう必死である。
犬という犬に駆けよって、いきなり口を舐めようとする。
ここでもまた、相手の意向にお構いなく、お友だちであることを強制しようとして、ときどき激しく拒絶されている。



2011年11月26日(土) No.124

感情




ボニーはアレルギーの気があるため、1週か2週に1度シャンプーで全身を洗っている。
全裸の私と風呂場に入って、全身を洗うのである。
いうまでもなく、ボニー以外、私とそういうことを好んでする人間はいない。

いつだってボニーは喜んで風呂場についてくる。
シャンプーが好きなわけではない。
ただ、人と一緒にいて、一緒に何かをするのが好きなのである。
好きなどころか、全身全霊、力いっぱい好きなのだ。

風呂場で、最初に私がシャワーを浴びると、その横でじっと立っている。
「なんですか、なんですか、その楽しそうな遊びは」と。
激しい飛沫を浴びようが気にしない。
ときには、シャワーヘッドからの放流をすすんで顔で受けてみたりする。

人がやることを、同じ場にいて共有したいのだ。
体を洗われるのはけっして好きではないはずだが(ときどきバスタブのプラスチック蓋の上に避難したりする)、人がそれをやるならガマンできる。





最近読んだ複数の書物に犬と霊長類についてのおもしろい記述があった。
チンパンジーなど霊長類と犬の知能を各種のテストで調べると、もちろん霊長類の知能のほうがずっと上回っている。
しかし、人の感情への共感という点では、犬がはるかに上で、むしろ犬だけにその能力が認められるといってもいいほどだというのである。

人の感情への共感とは?
あなたは思い当たらないだろうか。
人が悲しみに涙を流せばその横で不安げに寄り添い、人が楽しく遊べばその何倍もの喜びで全身を満たして遊びまわる。
あるいは、人の顔をのぞきこんで感情をうかがう。

これはほとんどの犬に備わるものかもしれない。
だが、その特質がとくに強いのがラブであり、ボニーであると私は思う。
ボニーと暮らすと、こちらの勝手な錯覚であるにせよ、自分たちの感情を分かち合うことができるような気さえする。
じっと話しかければ、深い包容力をもって人のあらゆる感情を受けいれ、透明に溶解してくれるような気がする。

だから家内は、私ではなく、ボニーに内心を告白するのだ。

2011年11月21日(月) No.123

よきもの




あまりに日記をサボって、前回に続いてなにを書こうとしていたのかも忘れてしまった。
サボリつづけている間に、何人もの方から「日記どうなってるんですか」と尋ねられ、「日記書かないのは、ボニーが手放せないからじゃないの」などと言われることもあった。
ボニーになにかあったのかと心配した人はいても、私の健康を気づかってくださった人徳ある方は、残念ながらひとりもいなかった。
この際だからいっておくが、まったく健康です。

そうだ、前回、私が書こうとしてたのは、ボニーに備わっているほとんど天賦と呼ぶべき能力のことだった。

家の中で暮らすボニーは、ほぼ理想的な伴侶である。
単にマナーがいいというだけではない。
家内は「思うことをいつもボニーに話しかけていた。この子がいなくなったら、どうしていいかわからない」などと言う。
日本語をよく解する立派な人物がすぐ近くにいるというのに、これだ。

ボニーには――多くのラブにはといいかえてもよい――人が人に求めながら、ついぞ得られない何かが感じられる。
思わず人が心をうち明けたくなるような何かが。
それはおそらく、ラブに特徴的に与えられた能力のひとつであり、起源をたどれば、前回書いたラブに私が感じたのととてもよく似た「よきもの」から出発しているように思えてならない。

じゃあ、その「よきもの」とは?
それをラブの「根の善良さ」などと書いてしまうと、あまりに平面化しすぎて、なにかが少し違う気がするのだ。



2011年11月21日(月) No.122