俺 流  [ Perro Dogs Home 預かり日記 ]

しつけ3


前の飼い主が、ブリに体系的なしつけを施した形跡はない。

しかし、間違いなくひとつのことはブリに覚えこませている。
どんな場合でも、私が腰をかがめて声をかければ、ブリは急いで戻ってきて、私の前にすとんと座る。駆け戻るのと座るのがワンセットになっている。
また、私が腰をかがめている(座っている)あいだは、横でじっと寄り添うことができる。なにひとつ命じないでも、そうするのだ。

たったそれだけ?
とんでもない。これができるのとできないのでは天と地ほどの差がある。

散歩中にグイグイ引きまくっている最中であっても、鳥の前で固まっているときでも、私が腰を落として呼びかければ、ブリは嬉しそうに私の横に戻ってくる。
あるいは、斜面に座って川の流れを眺めているとき、ブリは傍らに寄り添って私と静かな時間を共有できる。
これが、どれほどの充足感と喜びを私にもたらしているかを考えれば、しつけの意義は明らかだろう。

それに、ブリの排泄物を拾い集めているさなかに引きずり倒される心配もしないですむ。

じつのところ私が、「しつけできなくても、自分がいいからいいんだ」などとうそぶいていられるのは、こうした最低限の下地がブリに与えられているからにほかならない。



ブリが私に与えるささやかな幸福感は、もちろんブリに対する私の態度に反映し、私からの無償サービス提供量の気前のいいほどの増大を生む。そしてそれは、さらにいい影響をブリと私との関係にもたらす。

ひとつのしつけのおかげで、多くのことが好循環に向かう。
他のすべてのことは別にしても、この点だけは前の飼い主に感謝したい。
2008年09月26日(金) No.11

しつけ2


私はしつけに関して(も)全然ダメな人間である。

しつけに必要な一貫性、持続性、根気といったものが、どこか私には欠けている。パチンコをしていて、玉が出だすと「ああ、面倒だなあ」と思うような、私は人間なのだ。(そんなだから、もう20年来、パチンコをしたことはない)

ブリもわが家に到着以降、しつけの面でめざましい進歩は何ひとつない。
しつけができなくたって、私がいいからそれでいいのだ――という考えが一瞬、心の片隅をかすめ飛ぶことがあるが、すぐに「それは間違いだぞ」と自分を叱咤する。



犬と私が社会的存在であるかぎり、「自分がいいからいい」とは絶対にならないことを、私は知っている。
1島まるごと8千数百万円で売りに出ているという瀬戸内海の無人島を私が購入し、そこで完全に自給自足の生活をするようになるまで、この言葉は引き出しにしまって大切にカギをかけておくべきだろう。

それに、自分以外の人の手に犬が渡る可能性をつねに考慮しておくのが、よき飼い主の務めでもある。万一のそのとき、犬がどう振る舞うかで、その後の犬の生活の質どころか、場合によっては生存のチャンスすら左右される可能性があるのは、譲渡活動で私たち自身が骨身にしみて理解していることだ。

前置きが長くなったが、私が自分のダメさ加減を痛感させられたのは、♀のダルメシアンを短期間預かったときのことだった。
とても優美な女の子だったが、センターから引き出してわが家に連れ帰ると、スワレひとつできず、散歩に出れば気ままに引いた。あれ、なんにもしつけが入っていないのか、この子は……と私は少し当惑した。

その一方、家の中ではいい子の模範のように振る舞った。
私にベッタリ寄り添い、「あなた大好き」という視線を私に送り続けて、甘えた。そこで私は「これはこれで、まあいいか。いい子だし」と考え、手綱を緩めっ放しだった。

自分がすっかり見誤っていたと知ったのは、一時預かりボランティアさん宅にダルメシアンが移動してからだ。


この目にやられた

そのお宅は大型犬のベテラン飼い主さんだった。
白紙の状態でこの子を見て、家庭犬として必要な振る舞いをひとつひとつきちんと求めていった。
まず、スワレをしないと自分の望むアクションには移れないのだぞとダルメシアンに示すと、あっさりと座った(らしい)。
散歩で気ままに引いたときには、いかにも大型犬のベテラン飼い主らしく、ハーフチョークをカツンと引いてショックを与えた。すると、呆れたことに、コイツはぴたっと横について歩きだした(らしい)。
信号で立ち止まったときには、横についてスワレまでする(らしい)。

つまり――考えたくはないが――こういうことなのか。
この子はなんでもできたけど、私の前ではなんにもやらなかった。
私のようなダメ飼い主は、こうして籠絡され、犬にとってみごとに「(都合の)いい飼い主」になるわけだろう。

私とこの一時預かりボランティアさんの違いは、即断せずにきちんとやるべきことをやった点、なによりも同性(女性同士)であったから、ダルメシアンの「しな」や甘えにびくともしなかったのが大きい(と私は考えたい)。

いまこのダルメシアンは、最高の環境で幸せに暮らしている。
先住の♂の大型犬はたちまちダルメシアンの尻に敷かれ、ご主人はこの子の最大の賛美者と化している。
頼りは奥方ひとりということだろう。
2008年09月25日(木) No.10

散歩


散歩の大切さは、ことに譲渡団体で犬の預かりをするようになってから、痛感させられている。

犬の飼い方にはさまざまな流儀があるから、他の人のやり方に口をはさむつもりはないが、少なくとも私には、散歩をしないでその犬の性格を見きわめることはできないし、散歩をせずにその犬と心を十分に通わせる自信もない。

預かり犬と散歩に出る――。
その犬にとって、細いリード(引き綱)でつながった私だけが、この見知らぬ世界で仲間と呼べるたったひとつの存在なのである。
私と彼ら(彼女ら)は、ここでは、全世界を向こうに回すことも厭わぬ戦友であり、同志であり、友人であり、ブラザーである。

そうして、1本のリードを通して、互いの感情に――あるいはこういっていいなら心に――分け入ることができる。まあ、正確には、私がそう思っているだけのことなのだが。



私の散歩コースに川沿いにつくられた人工的な斜面がある。土留めの石が敷き詰められているだけの場所だが、桜の枝を日よけの天蓋にして、川の流れを見下ろすことができる。
預かり犬と一緒にそこに腰を下ろし、その息づかいを聞くのが私のひそかな楽しみになっている。

最近、短時間だけ立ち寄ったゴールデンの子どもは、世界から隠れるように私の背後に回りこんで動かなかった。
もちろん全方位へのシッコの放出に専念するヤツもいるし、早く早くと引っ張り続けるせっかちな子もいる。
ブリは私の傍らに座ってじっと周囲を眺めている。しかし、私が立ち上がる素振りを見せた瞬間、たまったエネルギーを爆発させるように一気に斜面をダッシュして駈け下りる。私は転がり落ちないように足を踏ん張らないといけない。

ブリは、散歩の前半は優等生とはほど遠い。正直、骨が折れるときもある。
しかし長い散歩の後半、住宅街などを抜けてわが家への帰路を歩いていると、誰が請うたわけでもないのに、ブリが嬉しそうな表情で私を見上げることがある。何度も何度も。まるで「嬉しいね、楽しかったね、今日のお散歩は」と歌声をあげているように。

その目を見ながら私は、これほど純粋で幸せな時間を自分がこの前に持つことができたのは、いつのことだったろうかと思う。
2008年09月18日(木) No.9

鳥猟犬というもの


ときどき「猟犬って気が荒くて大変でしょ」と尋ねられることがある。
「いいえ、猟犬ほど、気のやさしい、平和主義の犬はないですよ」
そう答えることにしている。
たいていの人は、「いつも、いいかげんなことばかり話す人だなぁ」という表情で聞いている。

以前飼っていたセッターを思いだす。
呆れるほどタフで、散歩ではこちらの寿命をすり減らし続けたし、頭がよく、容易に人を出し抜いた。
決して飼いやすい犬ではなかったかもしれないが、しかしあれほど本質的に人にやさしい犬はなかった。



まだ小学生だった長男が、悪ガキ仲間を家に連れてきて庭で遊ぶと、セッターは格好の遊び相手になった。
水鉄砲で水をかけたり、火薬で音のするピストルを鳴らしたり、目の前で木の枝を振り回したり……およそ犬の嫌がるあらゆることを子どもたちはしでかしていた。

セッターは、乳母がそうするように、困った表情で子どもたちを見ていた。本当は自分の身だけを心配しているのだろうが、ハタから見ると子どもたちの身を案じているようにも見えた。
うなり声をあげるでもなく、敵対的な素振りのひとつも見せない。ひたすらオロオロしているだけだった。

セッターの遺伝子には、「ロボット三原則」のように、人に対する威嚇や攻撃といった敵対行動の抑制が書きこまれているんじゃないかとさえ思ったが、それは違った。
隣家に植木屋さんが入り、わが家との境界のブロック塀によじ登って樹木の剪定などしていると、セッターは激しく吠えかかった。

ブリと暮らしていて、あのセッターを思いだした。
しかも私の見るところ、「ずるさ」をしばしば発揮する油断ならぬ生き物であったわが家のセッターより、ブリのほうがはるかに純である。
2008年09月16日(火) No.8

しつけ


「いい子ですねえ。よくしつけられてますね」
その女性は感に堪えたようにいった。
レストランのテラス席で、私の足元に伏せしたまま声ひとつ出さないブリを見て、隣のテーブルに座っていた若いご婦人が声をかけてきたのだった。彼女はチワワの小犬を連れていた。

「いや、全然しつけはしていないんですよ」
私がぶしつけにそう答えると、女性は驚いたようだった。その目には「バカにしているのではないか」という不快感も少しだけ浮かんでいたように見えた。急に表情が冷淡になった。

でも、本当のことなのだからしかたがない。
昼からワインを飲んでいる、見るからに怪しげな飼い主の横で、ブリが悠然と構えているからといって、それはしつけがよくできていることを意味するわけではない。



回転しながら右に左に動きまわるコマのような小型犬の神経過敏に馴れた人には、ブリの落ち着きは特別なものに見えるのかもしれない。トレーニングの結果、はじめて可能になる何かに。

そうではない。
これはある種、生得のものといっていいと思う。
ブリには恐れるものは何もなく、恐れさせる必要がある相手もいない。精神が安定して、自らの存在のゆるぎなさのなかで安んじている。
だからこういう場で、すっかり神経の武装解除をして、リラックスできるのだ。
大型犬の成犬には決して珍しくないことである。

それに、ブリには明確なONとOFFがある。
鳥や猫を見たとき、散歩に出発した直後、気分がハイになったときなどにはONのスイッチが入るが、それ以外のときにはOFFとなる。
ONとなったときのブリは、恐るべき放埒なエネルギーを発揮して私を引きずり回すが、OFFのときのブリはまったく手のかからない子なのだ。そして、OFFの時間のほうがずっと長い。

「でも、猟犬だから大変でしょ。気が荒くて」
どういって説明すればわかってもらえるのだろうか。これは完全な誤解なのだ。
こうした誤解が、犬飼いのなかにも根深く存在するのは残念でならない。
事実はほとんど逆である。
2008年09月15日(月) No.7

天分


「360°ビジュアル犬種大図鑑」(interzoo刊、原著のタイトルは「TOP TO TAIL」だというから、また相当に思いきった邦題に変えたものである)という書籍に、ブリタニーについて書かれた次の一節がある。
地面を住みかにする鳥を飛び立たせるといった、ブリタニーが生まれながらにもっている本能

なるほどなあ、と思う。
ただし、これは婉曲な書き方ではないだろうか。
ブリタニーは、「鳥を飛び立たせる」ために追いかけるというより、狩猟的な(もっといえば捕食的な)本能にもとづいて行動していると考えるほうが自然だろう。

そういう目でブリを見ると、狩猟の技術に関しては職人的熟達の域に達している。たしかに生まれながらの大家であるに違いない。

鳥、猫がブリの視野に入ると(視野は広大だ)、そちらに向かって動き(つまりリードを強く引いて)、強烈にガンを飛ばす。
そのままセットするか、最大の自制心をもってしずしずとターゲットに近寄っていく。自分の信ずる射程圏に達すると、突如として躍りかかる。そのときの静止加速の能力は、ボルト以上かもしれない。



ある日、ブリとの散歩中、私は斜め前方の地面にいたハトの存在に気づかずにいた。
私と歩いていたブリはもちろんそれを見落とさず、射程圏に入るや、だしぬけにハトに飛びかかった。
ハトが飛び立ち、その直後をブリがジャンプする。
ほんのわずか及ばなかったが、ブリの顎からハトの尾羽まで10センチ程度しかなかった。名手である。私の知る範囲で、かつてこれほどハトに肉薄した犬はなかった。
(狩猟の心得のない犬は、遠くからまるで喊声(かんせい)でもあげているように突撃するので、鳥はいちはやく逃げおおせる)

ブリは水をいっさい忌避しないから、リードを放してしまえば、ジャブジャブと池に入って水鳥を追うに違いない。
2008年09月09日(火) No.6

ロケットスタート


ブリタニーのことをわが家では、「ブリ」と呼んでいる。
最初、「弾丸」を意味する英語の「ブリット=bullet」(bulletをブリットと表記すべきかは微妙だろうが、私にはスティーヴ・マックイーンの抜群にクールな映画『ブリット』の記憶が強い)か、コイツの故郷フランスの言葉で「ブレ=boulet」(同名の抱腹絶倒の喜劇映画があった)という呼び名にしようと考えたのだが、まあ、例によって私の弱った頭に負担をかけないロハスな方向にいったのである。

ブリの瞬発力は強大だ。単純に力比べをすれば、もっと力の強い大型犬はいるだろうが、ブリには力をいっさい抑制しないというアドバンテージがある。

とくに静止状態からの爆発的な飛び出しは強烈無比。私はこれを「ロケットスタート」と呼んでいる。道路に面した門扉の前でマテをさせてから、門扉を開く。安全を確認するためにまず私が外にでて「ヨシ」と声をかけると、強力バネで弾きだされたように飛びだしてくる。その勢いたるやすさまじく、こちらが不用意な態勢でいれば、リードで強く引かれた肩や肘を傷める可能性もある。



先日、センター多摩支所に保護犬の引きだしに行ったのだが、その際、思いがけずブリタニー談義となった。
私がブリタニーの話をすると、職員さんが相好を崩して「私も飼っているんですよ」と応じてきた。引きとり手がない収容犬のブリタニーを見かねて、自宅に連れ帰ったのだという。
初対面のその職員さんとの距離が、一気に十分の一に縮まった気がした。

「ムチャクチャ引いて大変ですよね」
(学齢に達した子どもを持つ母親同士の子ども談義と同じ作法で私は会話をスタートした。つまり、わが子のダメな点の提示から。ブリの場合は謙遜どころか事実そのままであるが)
「いや、そんなではないですよ」
「えっ、猫とか鳥とか見ても大丈夫ですか」
「ああ、それはダメですねえ。セットしちゃいますから」
「出だしが強烈じゃないですか」
「うーん、たしかにGOを出すと、ズドンと行きますね」

少し話しただけで、職員さんのブリタニーが「私のブリ」に比べて相当にデキがよろしいらしいことがわかってきた(=飼い主のデキの差)。縮まった職員さんとの距離がふたたび開いた感じがした。

だが、この出会いを通じて、いくつかの共通するブリタニーの特徴点が見えてきた。
ひとつは、ブリタニーの飼い主同士が出会うと思わずブリタニー談義をはじめてしまうという事実。
猫や鳥を見ると強く反応すること。
静止状態からの強力なダッシュ力。

最初のひとつ以外は、何代にもわたって鳥猟犬として深く刷り込まれたものであろう。

そしてそれは、いい飼い主さんの手にかかれば、(強烈な個性は残しながらも)十分にコントロールされるということだ。
2008年09月08日(月) No.5

目が語るもの


私が以前属していた譲渡団体で、多摩支所からの犬の引き出しをほぼ一手に担当していた女性がいた。
小柄な女性だった。自分と同じくらいの体重があろうかという大型犬を飼っていた。

その女性がセンターから犬を引き出すときの判断基準を私に話したことがあった。
「その子の目を見るのよ」
目に信頼や寛容、優しさや明朗が見てとれる犬は引き出すが、不信、恐怖、強い警戒、怒りといった色が浮かんでいる犬は引き出さない。たしか、そのような話だったと思う。

「性格さえよければ、あとはどうとでもなるんだから」
そう言いきった。
いかにも大型犬の飼い主らしい剛毅さだなと私は感じた。
そのやり方で、失敗がなかったとはいわない。だが、どんなやり方を選択しても、どれだけ最善を尽くしても、見誤ることはある。

いまになって、そのときの言葉をよく思いだす。
私は目を見て、自分の直感的印象だけを頼りに犬の引き出しを決断できるほど剛毅ではないが、しかし根本において彼女の言葉はまったく正しいと思う。

性格さえよければ、あとはどうとでもなるのだ、と。
そこから先、試されるのは私たち人間の側なのである。



いま私の前にいるブリタニーの双の眸(ひとみ)を見れば、彼女だったらためらわずにセンターから引き出しただろう。(私? 少しためらいましたとも)
無邪気全開でイタズラっぽく輝く目には、不信の影もない。
食餌を「マテ」させるときだけ、内面の葛藤を物語る暗い色がわずかに浮かぶがな。
2008年09月02日(火) No.4

小型犬と大型犬


前に書いたとおり、私の家はPerro保護犬の通過点になっている。
これまで、小は2kg足らずの小型犬から、大は30kgに近い大型犬まで、何頭もの犬がわが家を通り過ぎていった。

小型犬のよさは十分に承知しているつもりだ。

最近では、082のミニチュア・ダックスにすっかり魅了されてしまった。
何日かを一緒に過ごして、「このままコイツと暮らせたら」という思いを封じるのは本当に難しかった。
泣きたくなるほど、心根のよい子だった。
お金で犬の価値は測れないが、仮にこの子に値段をつけざるをえない事態になったら、私はありったけの大金を投資しても惜しくないと考えるかもしれない。
だが世の中は計り知れない謎に満ちている。この子への応募は皆無に等しい。
なぜだ! そう叫びたい気分になる。



ああ、それに069のチワワ。全身に緊張をみなぎらせて、凛として全世界と対峙していた。ちっぽけな体に似合わぬ勇敢さで、めったなことでは軍旗のように高く掲げたシッポを下ろさなかった。そのチワワから、私に向けて優しさがほろりとこぼれ落ちる瞬間の幸福感をなんと呼んだらいいだろうか。



けれども今回、ブリタニーをわが家に迎えて、「やっぱり大型犬……」とため息がでた。性格のよい大型犬には、ほとんど抗しがたい魅力がある。私はたちまちダウンを奪われたのである。
(※せいぜい20kg程度のブリタニーは、本来は中型犬に分類すべきかもしれない。けれども瞬発力の巨大さなどを考えると、私にとっては十分に大型犬である)
2008年09月01日(月) No.3

ブリタニーに何を求めるか


なぜ飼い主はセンターに迎えにこなかったのだろうか。

前の飼い主によってこの子に刻印されたハンドシャイを見て、私には何があったのか想像ができる気がする。
飼い主は、思うようにならないこの子に、手を上げていたのだ。

その人はいったい、ブリタニーに何を求めたのだろうか。
自分が求めるものと実際のブリタニーの振る舞いの差は、腕力――犬に与える苦痛の量――によって、修正できるとでも考えたのだろうか。



ブリタニーはブリタニーである。
それを理解せず、理解する努力すら怠って、「あ、かわいい」「頭よさそう」と自分たちの誤った印象に頼って家に連れ帰れば、飼い主とブリタニーの双方にとって不幸なことにしかならない。
ブリタニーらしいブリタニーほど、清潔と安穏と快適を至上命題に暮らす都会の多くの人にとっては、飼いにくい犬となりうると私は思う。

しかし、ともに雨に打たれ、泥にまみれ、汗だくになり、日に焼かれ、風に吹かれ、歩き、走り、遊び、喜び、互いに慈しみあう――そういう生活を自分の命のように愛することのできる人間にとって、ブリタニーは最良の伴侶となるに違いない。
そのことは、日記の最初に申しあげておきたい。
2008年09月01日(月) No.2

書けなかった日記


じつは、このブリタニーをわが家で預かってから3週間以上がたっている。その間、私は1行も日記を書かなかった。
その理由は、まず私の怠惰。それに、わが家はPerroの中継点の役割をはたしている。ブリタニーも当初は、わが家を通って別の預かりボランティアさん宅に行く予定だった。ぐずぐずしているうちに、結局この子を、わが家で預かることになった。その間、いたずらに時間がたってしまった。



しかし、日記が書けなかった最大の理由は、別のところにある。
一言でいって、この子はあまりにいい子すぎる。
欠点があったり、扱いに手を焼く犬について書くのはそう難しくない。あるがままを記せば、それなりに面白い読み物になる。
けれどもいい子について書くのは簡単ではない。「いい子です」「かわいいです」「本当に性格がよい」……平板で月並みな言葉の羅列になってしまう。それに、ホメればホメるほど、人は疑いを抱くものだ。ホントにそんなにいい子なのか。だったらなぜ、飼い主は迎えにこなかったのか、と。

そう。なぜ飼い主は迎えにあらわれなかったのか……。
2008年09月01日(月) No.1