俺 流  [ Perro Dogs Home 預かり日記 ]

イヌ、人と暮らさず(2)



▲この目! (注)ボニーではありません

上の写真が、そのラブである。
デジタルカメラに記録された撮影情報によれば、日時が2005年7月5日16時39分44秒になっているから、もう6年も前のことになる。
当時私は、別の団体で引きだしや預かりをしていた。
ボニーやテツ同様この子も、東京都のセンターから引きだしてすぐ、わが家のカーポートでまず水浴させている。
その後、わが家に少なくとも1泊しているようだ。

私のおぼろげな記憶によれば、このラブは2歳程度だったように思う。男の子だったろう。
強烈な印象として私の記憶に焼きついているのは、その目だった。
何かに問いかけるようにじっと見開かれたその目は、内奥が見通せるのではないかと思えるほど澄んでいて、そして、空っぽだった。
そこに内発的な感情が見いだせなかった。

目だけではない、このラブの立ち居振る舞いのすべてに、内からわきあがってくるエネルギーが感じられなかった。
若いラブの男の子に、である。
まるで、ラブの影を見ているようだった。


▲じっと固まったように動かない (注)ボニーではありません

ほとんど運動をしてこなかったのだろう。後肢の腿の肉はげっそりと落ちていた。
ぎこちなく後ろ足を引きずるような歩き方を見て、関節かどこかに疾患を抱えているのかと思ったほどだ。

はじめて自分の前に開けた世界に、立ち尽くしている幼な子のようだった。
2歳にはなっているはずなのに、世界を何も知らず、自分が何者かも知らないようだった。

いったい、この子に何をしたのか。どういう飼育をしたら、ラブがこうなるのか。
いわゆる虐待ではなかろう。
人に対する不信や怯えは、この子からはまったく感じられなかった。
いや、いってしまえば、不信や怯えだけでなく、あらゆる感情が感じられないのだ。
不思議なことに、ただ、人に対する信頼のようなものだけはあった。
被毛や栄養の状態も悪くはなかった。

おこなわれたのは虐待ではないとして、しかし、虐待以上にむごいことだったと私は思う。
犬をここまで徹底して「無」にすることは、ふつうの人間にはできない。
徹底した「無菌培養」、あるいはハウスでの栽培のように、植物を育てるようにして、隔離してこの子を育てたに違いあるまい。
おそらく繁殖業者か販売業者……。
きちんとケアはされていたのだと思う。
愛情からではなく、健康に対する顧慮にもとづいて。
後肢の筋肉が発達していないのは、犬舎のような狭いところに、閉じこめられて暮らしてきたせいだと思われる。


(注)ボニーではありません

だが、私が本当に驚いたのは別のことだった。
犬としてのほとんどあらゆる活動性や意欲を削ぎ落とされ、人から何も与えられなかった結果、素晴らしくピュアで、何も混じっていない純水のような本質だけが、この子には残されることになった。
いわば年齢だけを重ねた幼子だった。

そうして、氷河の奥に閉じこめられた青氷から溶けだす原始地球の大気のように、原初的な犬の美点のようなものがこの子に封印されて残されていたのである。
心根の美しさと表現するだけではまだ足りない、何かかけがえのない、おそろしく失われやすいものが、そこにはあった。
それは私の胸を激しくゆさぶった。

人の痕跡がないから、人の汚れに染まらなかったからこそ、無垢ないい犬であり続けられた。
だとすれば、なんという逆説か。
犬を悪くしているのは私たち飼い主の側ということだ。

※数年後、センターでそっくりな表情の子に出会った。ブリーダー放棄されたドーベルマンだった。
2011年08月09日(火) No.121

イヌ、人と暮らさず(1)



▲泥だらけのコングと遊ぶ

ボニーには一般家庭で飼育されていた経験がない――と私は考えている。

センターからわが家にやってきたとき、ボニーはほとんど人の言葉を解さなかった。
いまも人の言葉に対する反応は希薄だ。

コマンドのことをいっているのではない。
「スワレ」「マテ」などのコマンドはもちろんまったく入っていなかったが、そうしたものはオヤツをちらつかせながら教えればすぐに理解した。
しかし、人が日常的に発している言葉のなかから、自分のトクになりそうな言葉だけを都合よく瞬時に選り分けて反応する、あの家庭犬特有の卓越した(ときとして困った)能力を、この子は身につけていない。

ボニーは、「散歩」だとか「ご飯」だとか「おやつ」などといった、ラブなら強烈に反応するラブ的人生必須用語に、いまも反応しない。

犬とひとつ屋根で暮らした経験がある人ならご存じだろうが、犬は人間観察の達人である。
犬にとって、言葉によるコミュニケーションが仮に存在するにしても、少なくとも優位ではないだろう。
会ったこともなく、声も聴いたことのない相手と、ネット上で短文をやりとりしているうちに白熱の大げんかになるなどというエネルギーロスとは無縁である。

しかし、素晴らしく鋭敏な感覚器官をもつ彼(彼女)らは、人の発する音声の微妙な抑揚や調子、強弱を聴きわけ、特定のシチュエーションや、ひたすら待ちわびている特定の行為(食餌、散歩、オヤツ)と結びつけることができるのである。
うっかり「オヤツ」と口に出しそうになって、「おや……じは、ここにいる」と言い換えたりした経験は、あなたにはないだろうか。
そんな言葉を口に出そうものなら、やっと静かにお休みくださった犬がガバッと跳ね起き、急いで駆け寄ってきてしまう。シッポをバタバタと振りながら。
しかしボニーは、大声で「オヤツだぞ」と声をかけようが、「ご飯食べよか?」と尋ねようが、無反応である。



さらにまた、ボニーには、大型犬らしからぬ粗相があった。
小水をガマンしないのだ。
センターから出してきた直後、「お腹が痛くなるほどガマンしたら身体に悪いんだよ」と大量の排水を、悪びれずに床のど真ん中でするボニーに驚愕した。
ラブやゴールデンの女の子のなかには、見知らぬ環境だと場合によっては数日間も小や大をガマンする子がいるのを知っていたから、なおさらだった。
そのうち、この家の習慣を知り、数時間おきに外に出してもらえると理解してからは、少しガマンするようになった。
それでも、けっして無理をしない主義である。
水を飲みすぎたり、少し待ち時間が超過すればあっさりと水門を開く。
最近では、この家の水まわりがどこに存在するのか理解したらしく、ちゃんとキッチンのシンクの前の床(不幸なことにそこには床下収納がある)でなさるようになった。

散歩?
完全なる無政府状態である。「野生のボニー」と私は呼んでいる。

総じて人の手の痕跡がボニーには感じられない。
にもかかわらず、家の中では模範的な家庭犬として振る舞うボニーを見て、私は1頭のラブを思いだしていた。

2011年08月08日(月) No.120

ごほうび



▲頭が異様にでかいのはレンズの歪曲のせい。リアルボニーはもっとスマートだ

「この子はウチへのごほうびよね」
家内が私にそういった。
ボニーは家内のたいそうなお気に入りなのである。

かねてから不思議なのだが、女性はこの「ごほうび」という言葉をよくつかう。
それも、たいてい自分自身に対するものとして。
よく働いた私へのごほうび、うんと苦労したごほうび……という具合だ。
自分の善行に対しては、かならずや、周囲の誰かか、天の神様から何かのプレゼントがあるべきという発想なのだろうか。
もちろん通常はそんな「ごほうび」はどこからもやってこないから、自分で自分にごほうびするわけだ。
それがボニーというのも、考えればなかなか寂しい話である。

ともかく、わが家を通過していった犬たちのほとんどと接した家内がそう口にだしてしまうほど、ボニーはいい子なのである。
同じラブであっても、以前の預かり犬・テツとボニーではもう話にならないほどボニーのほうがいいと家内はいう。
たしかにテツは問題だらけの犬だし、ボニーは家庭内の日常生活での問題はほとんど見られない。
しかし私はといえば、テツのあの一途さに惹かれる。
ボニーはいい子だが、なんというか職場のだれに対しても同じだけ愛想のいい美しい女性みたいで、文句をつける筋合いはないのだが、どこか私には不満である。(ただしこれが理のないオヤジ的言い分であることは知っている)

ちなみに家内の「ボニーごほうび」説は、ボニーの散歩に一度同伴してから撤回された。


▲洗濯物の山に頭をつけ、身体にカーテンを巻いて爆睡中

さて、前回までの日記をお読みになって、ある矛盾に気づかれた方がいらっしゃるだろうか。
当然、スワレやマテなど何ひとつできなかった。
できるできないというより、そういう人との関係がボニーには未知だったようだ。(7月26日)

こう書いた翌日に、私は次のように書いている。
いかに人と暮らすかを、この子は知っているとしか思えない。(7月27日)

人との関係が希薄だったように書きながら、一方で人との暮らしを熟知しているように書いているのは、いったいどういうことよ、と。
それについての私の考えは次回に。

2011年08月01日(月) No.119