俺 流  [ Perro Dogs Home 預かり日記 ]

人と暮らすための犬



▲カーテンにくるまる

あなたは、犬とのこんな暮らしを思い描いたことはないだろうか。
家族の食事中は静かに床の上でうずくまっている大型犬、その犬はテレビを観ている間あなたにひっそりと寄り添うし、夜ベッドで就寝するあなたの足下に丸くなっている。
あなたが帰宅すれば、静かなしかし心からの最大の熱意で喜び、あなたが外出するときにはヒンヒンと2度ほど鼻鳴きをしてから、黙って伏せてあなたの帰宅を待つ。

それがボニーとの生活だ。

留守番させる前と後で、わが家になんの変化も起きない。
盗み食いも、破壊も、イタズラも(ほとんど)しない。
わが家にきてから、1度も吠え声をあげたことがない。

いかに人と暮らすかを、この子は知っているとしか思えない。
人と暮らすための犬といっていいかもしれない。


▲私の太もも(股か)に頭をのせてくる

この子は家族の誰に対しても、分け隔てというものをしない。
愛情の分配という点で、すさまじく民主的な生き物である。
来客に対しても、いやいっそ世界中の誰に対しても、おそらくこの子は同様に振る舞うのだろう。
人がそうありたいと夢想しながら、ついに至ることのできない道徳的な高みに、この子はなんの労苦もなしに到達している。
純朴で無垢で高貴でさえある自分を知らずに、道端に落ちているモノを拾い食いしたりして生きている。

ラブならそういう子は珍しくないだろうって?
そうかもしれない。
しかし、最大限ひいきめに言って「大器晩成」な犬種である。
たかだか1歳で、人とこれほど近い距離で、これほどローインパクトに暮らせる子は、ラブといえども希少だろう。
少なからぬラブ飼いは、モンスターが脱皮してこのような子が出現する瞬間を待ち詫びながら、多くの苦行難行に耐えるのである。


▲小さな相手とも全力で遊ぶ
2011年07月27日(水) No.118

いい子ってナニよ




いい子、いい犬とは何か。

人によってその定義は違う。
そりゃそうだろう。異性の好みだって、人それぞれ微妙に違う。
そうとうに変わった好みも存在するし、それこそが、この世がなんとか成立している(つまり私やあなたに配偶者がいる)最大の理由であろう。
だいいち単一の価値観なんてゾッとするではないか。

もし仮にあなたが、人の命令にしたがって動く犬を「いい子」と考えるなら、ボニーはいい子ではない。
そもそもボニーはわが家にやってきたとき、ほとんど人の言葉を解さなかった。
知らないふりをしているのではない。
おやつ、ごはん、散歩というラブ必須三大言語に反応を示さないなど、演技ではありえない。
当然、スワレやマテなど何ひとつできなかった。
できるできないというより、そういう人との関係がボニーには未知だったようだ。(もちろん、ラブのことだから、ごはんやおやつでたちまちスワレ、マテは覚えた)
いまも、人の言葉に対する反応は薄い。「そろそろ散歩の時間かな」とか「ボニーのごはんはまだだっけ」などと安心して家内に大声で話せるのはよいところだ。


▲水鳥を追跡したい気持ちで圧倒される

脚側歩行が完璧にこなせて、信号待ちでは飼い主の横にひたっと座るような犬が「いい子」と考えるなら、ボニーはいい子ではない。
彼女の足は、リードを持つ人間の意思とはほぼ無関係に、ふらふらと右に左にさまよう。
その興味は主として昆虫から鳥類にいたるまでの動く生き物全般に向けられる。
とくに同類の犬に対しては全力で挨拶にいかなければならないと固く決めているらしい。このときの力にはかなりのものがある。
駆け寄って、なぜかいきなり相手の口をなめて、思いきりイヤがられる。

じゃあ、ボニーのどこがいい子なのか。
「心」といってしまいたい衝動をおさえて書くなら、それは人との絶妙な関係に尽きるといっていい。


▲どんなに迷惑がられてもひたすら遊びを迫る
2011年07月26日(火) No.117

ぼんた



▲聡明そうな目ほどには聡明ではない

家に帰るとただちに、カーポートで水浴した。
「ジャンボたらい」(商品名です)に入れ、シャンプーで洗い、ラバーブラシをかけた。
盛大に毛が抜け落ちた。臭いは毛ほどめざましくは落ちなかった。
大型犬を水浴させると、自分自身も全身水浴したのと同じ効果があるのはご存じかと思う。

1時間の水浴後、びしょ濡れのラブとびしょ濡れの私で風呂場に入り、ふたたび1時間近い時間をかけて、のんびりと洗いなおした。湯をかけ、シャンプーし、ブラッシングして、また湯をかける。
ラブは当たり前のように風呂場までついてきて、当たり前のようにじっと立って、されるがままに身を任せていた。ときどき私の顔をなめた。

洗うあいだ、私は犬の名を呼びながら、話しかけるようにしている。
ややオーバーにいえば、そのようにして、犬の性格をおしはかり、最初のコミュニケーションを試すのである。



事前にPerroの関係者数人には「たいへんなヤツがくるんだよ」と吹聴していたが、家内には「女の子の小っちゃなラブがくるよ」と控えめに話していた。
「じゃ、ぼたんちゃんって名前にしよう」と家内はいった。
「ぼたん」って柄じゃねーよなと思ったが、「おお、それはいいね」と答えておいた。

風呂場で洗いながら、私は「ぼたんは、いい子だね〜」とか「気持ちいいだろ〜、ぼたん」などと声をかけていた。
しかし、いつの間にか「ぼんた」と呼んでいる自分に愕然とした。東京凡太(古い)のぼんたである。
すっかり無理が利かない脳ミソになっているらしい、無意識のうちに「ぼたん」が「ぼんた」に脳内変換されてしまうのだ。

「ぼんた」は私にとって収まりのいい名前なのだが、しかしこの若い女子を「ぼんた」と呼ぶのはいかにもマズイ。
そこで「ボニー」または「ボニ」と改名した。「ボネ」まで(自分に対する)許容範囲であるが、ときどき「ボン」と呼んでしまうこともある。
幸い、どれも英仏語あたりでは、よい意味があるらしい。

家に上げて確信した。ボニーは素晴らしくいい子だ。
ただし、私の「いい子」の定義は、多くの人とは少し違う可能性がある。


▲大型ケージにおとなしく入ってやってきたボニー
2011年07月21日(木) No.116

大誤算



▲センターから引きだした日に。ホースで水をかけると、浴びるより飲んでいる

東京都のセンターで最初にそのラブを見たとき、真っ先に頭に浮かんだのは「小さい」ということだった。
同じ犬舎にずっと大柄の温和そうなラブが入っていたこともその印象を強めていた。
小さいのは結構。しかし、その様子はありていに言って、決して好ましいものではなかった。
私が「たいへんラブ」の三大兆候と考える「(1)視線が定まらない(2)挙動不審――不特定の方向に力いっぱい引く(3)吠える」をすべて備えているように見えた。

目のまわりがキョンシーさんのように黒ずんでいて、あまりラブらしくなかった。
アレルギー持ちなのだろう。
耳朶の内側も赤く、目も赤かった。
全身から異臭を発していた。


▲センターで。キョンシーさんみたいな顔をしている

私は本当のところ、この若いラブを預かるのは少し気が重かった。
ラブは好きだ。
しかし全方位に力を発散させているように見えるこのキョンシーラブはなあ……。無用に気力・体力を消耗させられるのは間違いなかろうと思えた。
私も若くない。この猛暑の夏を挙動不審のこいつに振り回されるのかと思うと、考えるだけでどっと疲れた。

センターで、後席を畳んだハッチバック車の荷室に置いたケージに入れて走りだすと、キョンシーはヒンヒンと小さく鼻鳴きしたが、それっきり静かになった。
途中、荷室のラブを振り返ると、ケージのなかでじっと立っていた。
そっとたたずんでいるといった風情にすら感じられる。
内心不安がないはずはないのに、まるで通い慣れた道をドライブしているように落ち着いて見えた。
信号待ちのあいだに、ケージの隙間から指を入れるとペロリとなめた。

ひょっとしたら自分はこの子のことを見誤っていたのではないかという気が、はじめてした。
そのときはまだ本当には気づいていなかったのだ。私は見誤っていたどころではない。大誤算をしでかしていた。
この子は、駆けずりまわって探しても見つからないほどの素晴らしいラブだったのである。


▲強制水浴中。表情はやさしい

※申しわけないことに、ユーリ(コリー)の日記はまだ完結していなかった。
いくつか書かなければならないことが残っていたのだが、311の大震災と原発の破滅的事故(この国が破滅に至らなかったのはたまたまにすぎない)・汚染という事態に茫然自失とした私は、日記をまったく書けないでいた。
そうこうしているうちに、次の預かり犬がやってきた。
ユーリの日記は、後日、きちんと書き終えるつもりだ。

2011年07月20日(水) No.115