俺 流  [ Perro Dogs Home 預かり日記 ]

恐れと信頼




上の写真は、いったい何か。
わが家におけるユーリの天敵である。

わが家は奇妙な構造になっていて、2階は長女の部屋の一室のみしかないという不経済なつくりである。
その部屋には、吹き抜け構造のLDK(ととりあえず呼ばせてもらう)に向かって開いた窓、というよりは四角い穴が開いている。
その穴が存在する意味は不明だが、いま、そこから長女が熊(ですよね)のぬいぐるみを突き出しているわけだ。
そうして、人間らしい悪知恵で、やさしい声でユーリを呼ぶ。

ユーリにとって2階はまったくの別世界である。
不思議な思考経路で、2階と1階はユーリの頭でリンクしていないらしい。
けっして階段を上ろうとはしない。
(ユーリは階段のような直線で構成された幾何学的構造を何よりも嫌うのだが)

高いところからヌッとあらわれた奇怪な生物状の無生物に驚愕したユーリは、ソイツに向かって激しく吠える。
怪しい、コイツ怪しいぞ、と。
ユーリの驚き、恐れは当然で、私たち家族も下から見上げて「うわぁー、なにか不気味ー!」と声をあげているのである。
写真ではかわいく見えても、実際に目にすると、あるべきでないところに、あるべきでないモノが存在する異様感が漂っている。


▲雪の日、幼稚園の送迎バスを待つ母子と遊びたい気持ちでいっぱいのユーリ

まったく無害なぬいぐるみに恐怖したユーリは、では怖がりなのかというとそうではない。
そのあたりについては、あらためて少し詳しく書くつもりだが、ユーリは慎重であっても臆病ではない。
とりわけ、相手が人の場合は、まったく恐れを見せない。

数日前、ユーリと川沿いの公園道を散歩していた。
50メートル先ぐらいに、すさまじく怪しい人がいた。初老の男性だった。
這うようなゆっくりしたスピードで前に進みながら、木刀のような木の棒を振りかぶっては振りおろしている。
目はどこか宙の一点を見すえているようだが、正気なのかそうでないのか私には確信が得られない。
このまま私に棒で殴りかかってきてもまったく不思議でないような雰囲気である。

こりゃ、エライもんに出会っちゃったなとは思ったが、意志の力を動員して、素知らぬ顔で真っ直ぐ歩き続けた。
ユーリのことが少し心配だった。異形なオヤジに吠えかかったり怖がって立ちすくんだりしないだろうか。

ところがユーリはまったく気にしない。
足どり軽く、むしろそのオヤジに近づくとシッポを振るのである。
リードをゆるめれば、ワーイと走り寄ったに違いない。

※通り過ぎてから何本かの長さの違う棒が地べたに置かれているのが見えた。棒術の鍛錬だったらしい。確信はないが。

ユーリは人を恐れない、けっして。
この世に生を受けてから、迷子でいた時間をふくめて、人にかわいがられたことはあっても、危害を加えられた経験がまったくないか、せいぜいが影響が残らない程度の危害しか加えられていないはずだ。
ユーリは人の手に恐怖を見ない。ユーリの目にあるのは絶対の信頼だけだ。
たとえば、私が竹ぼうきを振り回してみせると、ユーリは「ナニ楽しそうなことやってんの」と興味シンシンである。ところが、その隣にいたコーギーのコウちゃん(虐待を受けた可能性がある)は大仰に身をすくめて怖がった。

犬は生まれながらに人を恐れたりしない。
それを教えるのは人間だ。
犬を歪め、枉(ま)げるのは人間なのである。
数日前、ユーリと散歩していて、その実例を目撃することになった。

2011年02月23日(水) No.107

雪の降る夜は




東京の2度目の雪はかなり本格的だった。
その夜遅く、ユーリを連れて散歩に出た。
大粒の雪が音もなく降りつづいていた。
近くの公園にはひとっこひとりいなかった。
しんと静まりかえっていた。世界は私とユーリだけだった。

野球のグランドの半分の大きさもない小さな公園だが、本物の樹木があり、築山があり、繁みと草がある。
そのすべてが、誰にも踏まれていない真っ白な雪で覆われていた。
誰かと遭遇する可能性はまずないから、フレキシブルリードのロックを外して伸縮自由にした。
(フレキシブルリードの握り手は、手からとり落としたときのためにハーネスで私の体に固定してある)

ユーリは嬉々として雪を蹴立て、ダッシュしては急角度で切り返し、また私のほうに突進してきた。
飽かずそれを繰り返す。
私もユーリと一緒に走り、雪の上を転がった。
こんなに楽しかったことは久しくなかった。腹の底から笑いがこみあげてきた。

私が歩くと、ユーリは私の前を進んで、臭いを探索し、雪を噛み、あたりを見まわし、遅れると追いかけてきてまた私の前に出た。
フレキシブルリードの限界の距離までは遠ざからず、つねに一定の範囲内から出ない。
そう、おそらくこれが人と犬の関係なのだ。
こうやって人は、荒れ地や森、沼沢地を犬と渉猟してきたのだろう。



こんなに暗く、誰もいない、雪に半ば閉ざされた、沈黙の支配する公園で、私は不思議なあたたかさと安心感に包まれていた。
ユーリが一緒にいるだけで、世界はこれほど違って見えるのだ。
私が雪の上にべったりと腰をおろすと、ユーリはちょうど私に背を向けるかたちで私の体の真ん前に座った。お尻を私にぐいと押しつけて。
ときどき私を振り返る以外は、注意深く周囲に目をやっている。
ユーリは私に守られ、私を守っているのである。
気分のうえでは、私は世界と孤絶してユーリといた。それは素晴らしい体験だった。
もしかしたら原初的な人と犬との関係のミニチュアな追体験であるのかもしれないとすら感じた。

私が斜面から自分のお尻をソリ代わりにして滑り降りると、「オッサン、ナニするか」とユーリは思いきり怖がった。

翌日、ふたたびユーリと雪の公園に出かけたが、前夜のマジックは再現しなかった。
ユーリは雪を囓ってばかりいたし、それほど楽しそうではなかった。
(その理由はおそらく周囲の騒音だろう。雪の降った翌朝の東京はタイヤチェーンのガラガラ鳴る音、スコップで雪をかく耳ざわりな音などがまじりあって、ものすごく騒々しいのである)


▲午後遅くまで雪が残っていた
2011年02月19日(土) No.106

警戒吠え(2)




私たちは、犬が(正当にも)異変に気づいて吠えると、やみくもに叱ったりする。
おうおうにして、その原因もよくたしかめずに。
もちろん人間側にもさまざまな都合がある。
犬に対するそうした叱責は不当であるケースも少なくないことを、ときどきは思いだすべきだと思う。

だいぶ以前の話だが、『SASセキュリティ・ハンドブック』(アンドルー・ケイン、ネイル・ハンソン、清谷信一監訳/原書房)というまったく畑違いの本で、犬について予想外に本質をついた言葉に出会って、私は少し驚いた記憶がある。
その部分を引用させていただくと――
SAS(※)連隊では番犬への対応策を何か月も何年もいろいろと試してきたが、結局有効な手立てを見つけることはできなかった。われわれができないとすれば、泥棒連中にできるはずがない。いったん吠えはじめると飼い主が止めるまで犬は吠えるのをやめない。(略)結局、吠えている犬に対してはその場を去る以外、どのような有効手段も対応策もないということである。

もしあなたが犬を飼っていたら、犬のその警告に応えてやらねばならない。ところが犬が家のなかで吠えはじめると、おおよその人が静かにするように犬を叱りつけるだけで、犬がなぜ吠えているのか、外に出ていって調べようとはしない。

(※)SASとは睡眠時無呼吸症候群ではなく、英国陸軍特殊空挺部隊のこと。世界でも最精鋭といわれ、各国の特殊部隊が範としている。

ユーリは(にかぎらず犬は)、あらゆる差異にきわめて敏感である。
私がキッチンの調理台の引きだしを修理するために(ボンドで接着しただけだが)、引きだしを取り出し、ボンドが乾くまで床の上に無雑作に立てておいた。
と、その光景を見たユーリが、がぜん吠えだした。
たしかに、空っぽの引きだしが取っ手の側を下にして床に突っ立っている姿は異様である。
私たち人間は、その異様さを脳内で無視できるような設計になっている。だから本当は見ているのに見落とすことも少なくない。
ユーリは目に映るもの(あるいは感覚器がとらえたもの)は何ひとつ見落とさない。
異質に対しては全方位的に高感度センサーのように反応する。
私たちの思いもよらない何かに対して恐怖することもある。

先日、ユーリと散歩していると、突然、ユーリが棒のように立ち止まり、空を見上げてスワレの姿勢になると悲鳴に似た短い吠え声をあげた。
カラスか……。
ユーリの視線の先に急いで私が目をやると、樹のてっぺんでオジサンが剪定をしていた。
「やあ、ワンちゃん、驚かせてちゃったね」
「いや、どうも」
2人が不器用に言葉を交わすと、ユーリは警戒心を解除したらしく、吠え声をのみこんだ。


▲カラスを注視するユーリ

じつは似た経験を私は過去にしている。
以前、一緒に暮らしていたセッター種は、穏和な平和主義者であって、めったなことでは吠えなかった。
けれども、ここ一番ではきわめて優秀な番犬であった。
隣家に植木屋さんが入って境界の塀の上に立ったり、誰か見知らぬ人が黙って敷地に侵入してきたりしたときには(その人の意図にかかわらず)、驚くほどの吠え声をあげた。
しかし、私がその人とフレンドリーに言葉を交わせば、そこで吠えやんだ。
そのセッターはまた、地面に横になって腹筋運動をしているような人と夜の散歩中に出会うと、滑稽なくらい全身を緊張させて警戒したものだった。
道の真ん中にテレビが落ちているというありえない光景には、大きく道をよけて歩いた。

私たちは都合よく忘れてしまうのだが、歴史的に見れば、人は警戒吠えをはじめとする犬のこうした特性をたいせつに利用してきたのである。
2011年02月18日(金) No.105

警戒吠え(1)



▲東京の12日の雪はすぐに溶けてしまう程度のものだったが、朝の冷え込みは尋常ではなかった。
凍れるものすべてが凍っていた。いつもの木道もこうして凍りついていた。
ユーリは私の150倍ぐらい寒さに強い。苦手だった木道もいつの間にか歩いてわたれる。


東京に2度雪が降った。
最初の雪の翌日のことである。

私が寝転がってテレビを観ていると(私の場合、寝転がるのとテレビ鑑賞はワンセットになっている。最近そのセットに睡眠も加わった)、ユーリがガラス窓越しに激しく外に向かって吠えだした。
庭を猫が横切ったか、カラスが跳梁しているのか、あるいは風に揺れる洗濯物か……。
吠え方にただならぬ熱意がこもりだしたので、私も外を覗きこんだ。

しばらくは何も変わったものは見えなかった。
と、目の端を何かが動いている。
隣家の屋根に男性がいるではないか。
目をこらして見ていると、雨樋の雪を除いているようだ。

わが家と隣家のあいだには切り立った段差があり、隣家の敷地は2メートル以上落ちこんでいる。そのせいで隣家の2階は、わが家の1階とほぼ同じ高さになる。
隣家は木造モルタルだと思うが、ふつうの切妻屋根とは違って、コンクリート住宅のような真四角な構造をしている。
だから、屋根の部分は平面になっていて、おそらく周囲のぐるりに排水溝のようなものが切ってあるのだろう。
野心的な設計である。
しかし、排水溝に雪がたまって水はけが悪くなると、水が屋根側にあふれだして不都合が生じるのかもしれない。
野心的な設計の住宅というのは、おおむねそこで生きて暮らすにはなにかしらの不都合が生じるものである。


▲隣家の方向に吠えるユーリ

その男性はたぶん隣家のご主人で、せっかくの休日の午前中をこうして屋根の端から端まで点検し、何か(溶け残った雪か落ち葉だろうと思う)をかき集めていた。
これにユーリは激しく吠えたのだった。

よく考えるまでもなく、このときのユーリの行動は犬の行動基準に照らして正当である。
隣家の屋根でうろうろと動く怪しい人影があるなら、白紙の頭で考えれば、それは異変中の異変だ。吠えるに値するデキゴトである。
誤爆続きだったユーリがはじめて的確なアラームを鳴らしたといえる。

私だって屋根の上の男性を見たときには一瞬ギョッとした。
ただ、すぐに私の高性能脳内コンピュータが高速処理を開始して、過去のできごとなどをつなぎ合わせ、男性が日中屋根の上でうろうろしている意味を思いつき、警報を解除した。
ひょっとしたら私の理解のほうが間違っていて、男性が泥棒だった可能性だってないわけではない。


▲思うように遊んでくれないゴールデン君に「ちゃんと遊べー!」と吠えかかるユーリ。
ゴールデン君は馬耳東風。表情はすでに春爛漫である。もちろんこれは警戒吠えではないけどね
2011年02月18日(金) No.104

不妊手術



ああ美しい、ため息がでるほどに……

「麻酔から醒めたら、小型犬のようにキャーキャー大なきして。やっぱり子犬なんですねえ」
看護師さんが笑っていた。

生後6か月がすぎ、ユーリの不妊手術をおこなった。
男の子だから日帰り手術になる。
麻酔に対する体質だと思うが、ときどき手術後の具合がよくない子がいる。
その晩は死んでるのか生きてるのかわからないぐらいぐったりする。私が夜に起きて、何度も様子をたしかめるほどである。
犬種的にはセッター、ウィペットなど。ほとんど男の子で、やせ形のハンサムと決まっているから、私なども該当するわけだ。

ユーリは拍子抜けするほど元気に病院の奥から出てきた。心配しすぎて損をした。
そのうえ病院からの帰りの車中では、ずっとギャーギャーヒネヒネ文句を垂れつづけていた。
麻酔の影響で具合が悪いのか、術部が痛いのか、車酔いが重なって不快なのか、その全部なのか、とにかくご機嫌ななめである。
私は運転しながらずっとユーリのおしゃべりを聴いていた。よくしゃべることである。
しかし、息をしているのか不安になるほどぐったりと元気がない子を気にかけながら運転するより、文句を聴いているほうがずっとよい。


▲文句がはじけ出す直前の不満顔。目が陰険化してる

術後1週間も無事にすぎ、間もなくユーリの募集が開始されることになる。
本当に正直な気持ちを話せば、胸中やはり複雑なものがある。
少し前、家内に「コイツとの別れは辛いかもしれないなぁ」と話したら、「テツのときもそう言っていたし、いつも同じこと言ってるじゃない」と突き放された。
そだったか。
その家内も最近になって、「この子とお別れするのはきっと寂しいよね。本当に性格のいい子だから」などと言いだした。

テツとユーリでは、別れ難さという点は同じでも、その中身が違う気がする。
テツの不器用な一途さ。ひたむきさ。万事に至らなさ。
コイツはオレと別れて大丈夫だろうかという思いがつねにあり、同時に、コイツほど純に一途な犬と今後出会うことができるだろうかという思いもあった。
ユーリに対しては、どちらかというと人間の親の感情に近いものがあるかもしれない。
この子の成長ぶりを、かなうなら生涯を、見届けたいという強い思いが去らない。
素晴らしい可能性をもった子が、これからどんなふうに成長していくのか。成犬ユーリの益荒男(ますらお)ぶりをこの目でたしかめたい、という思い。

もちろん、私の役割は、この子を最善の状態で、最良の飼い主さんにお渡しすることにある。
それさえかなえば、別れの辛さなど、甘美な回想のひとつに溶解していくことを私は知っている。

しかし当たり前だが、知っているのと感じるのは別である。


▲ほうら、文句が出たよ
2011年02月09日(水) No.103

テツ再降臨



▲「ユーリ小次郎敗れたり!」 俺流島の決闘・テツ武蔵対ユーリ小次郎

昨年いちばん嬉しかったのは、ブリ(現・KAI)の飼い主さんから素晴らしい組写真をいただいたことだった。
これについては、後日、詳しくご報告したい。

今年はまだ先が長いので、誰かが大金をくれたり、素敵な女性から求愛されたり(私は既婚者だから涙をのんでお断りする)、どんなよいことがあるかわからないが、いまのところ先代の預かり犬・テツの来訪が最有力候補にあげられるだろう。
寂しい人生である。

1月末にテツと飼い主のWさんご夫妻がわが家を訪れた。
テツをお届けして以来、はじめての再会である。
Wさんは東京にご自宅があるが、東北に新しく素敵なすみかを見つけ、1年のほとんど全部をそこで暮らしている。いわば東京がセカンドハウスなのである。
奥方はときどき帰京し、ウワサによればそのまま海外へお出かけになったりもしているらしいが、ご主人とテツは山深い東北を離れず、切れ目なく密着して暮らしている。
それが今般、帰京して、しかもわが家を訪ねてくださったのだ。
これを喜ばずにおられようか。

再会したテツの頭は私の記憶よりさらに5割増しぐらい大きかった。
ユーリの細身の頭を見慣れてしまったせいか、「カボチャに胴体がくっついているのか!」ぐらいの印象である。
しかし、そのカボチャ頭をくり抜いたように開いている大きな2つの目は、いちだんと表情豊かで、しかも、やさしく穏やかになっていた。
感無量である。



驚いたのは、ユーリの反応だった。
テツの出現、そして私や家内とテツそれぞれの真率な愛情表現に、ユーリはなみなみならぬ危機感を抱いたらしい。
異様な熱心さでテツに向かってガンガン吠えると、しまいにはマウントしだした。マウントをしかけるユーリなど、見たことがなかった。
テツは、久しぶりの大都会(練馬ですが)に少し緊張していたらしい。最初のうちユーリのなすがままになっていたが、やがて調子を取りもどすと、反撃に転じ、逆にユーリにマウント返しをしかけた。
一瞬で決着がつき、ユーリはあっさりとテツの軍門にくだったのである。



ユーリがこういう具合に反応するのをはじめて見た。
テツと私たちの間に、何か違うものを感じたのだろうか。
私はしかし、こういうユーリの反応も成長の証として少し嬉しかった。

もうひとつ驚いたのは、テツが予想外に小さかったことだ。頭を除いて。
テツがしぼんだわけではない、ユーリが私たちが思っている以上に大きな犬になっていたのだ。
毎日の変化がわずかなのでなかなか気づきにくいのだが、ユーリはすでにとても大きいのである。
記憶のなかのテツはユーリよりずっと巨大なのだが、実際の2頭はすでに互角に近いサイズといっていい。
体重30kgのテツと並ぶと、頭の大きさはもちろん、胴回りのがっちりした肉の付き具合ではテツと比べようもないが、体長ではすでにユーリのほうが上回っているかもしれない。
これからまだ10kg近い伸びしろがユーリにはある。
ユーリ恐るべし。


▲ほとんど身体のサイズはテツと遜色がなくなっていた
2011年02月02日(水) No.102