俺 流  [ Perro Dogs Home 預かり日記 ]

家族求む




伝説的探検家のアーネスト・シャクルトンが南極探検隊員を募集した、有名な広告文がある。
MEN WANTED for Hazardous Journey. Small wages, bitter cold, long months of complete darkness, constant danger, safe return doubtful. Honor and recognition in case of success――Ernest Shackleton.
(拙訳)危険な旅に男子求む。小さな報酬、過酷な寒さ、長く続く完全な暗闇、絶えざる危険、安全な帰還は保証できず。成功すれば名誉と賞賛あり――アーネスト・シャクルトン

(実際には、名誉と賞賛はほぼシャクルトンが独り占めしたようだが)

テツの募集記事をシャクルトンにならって書けば、こうなろうか。
犬との長い旅に家族求む。無報酬で持ち出し必至、泥と汗の暮らし、長く続く散歩の日々、絶えざる疲労、安逸で清潔な生活は保証できず。成功しても名誉と賞賛はなくラブの愛をのみ得る――Perro Dogs Home

ラブとの長旅に志願者はあるだろうか……?
2009年07月30日(木) No.30

分・離・不・安


飼い主から突然見捨てられた経験は、テツに強烈な教訓を残したようだ。
人はお前を置いて逃げ去る、決して人から離れてはならぬ、と。
いわゆる「分離不安」がテツに生まれた。

テツはわが家にやってきて、私への熱烈なストーカーになることを決意したようだった。
以来、強固にその決意を守りとおしている。
とくに最初のころは、誇張でなく、私から1ミリも離れたがらなかった。
私の行くところはどこにでも、影のようについてくるテツの姿があった。

風呂に入れば脱衣場で張っているテツの輪郭が曇りガラス越しにぼうっと浮かび、トイレにも、パソコンに向かうときも、テレビを観るときもテツは私から離れようとしない。
なんとかわいい……と思われるかもしれないが、小型犬ならともかく、30kgもある巨体がストーカーのように一心に私の後追いする姿は、滑稽でどこか哀しく、なによりも暑苦しい。

人の歩行がいかにセンチ単位の精密な動きにもとづいているのかは、テツが私に教えてくれたことのひとつである。
私が歩くとき、テツは私のヒザのすぐ裏あたりにいつも頭をつけて後追いしている。
ときどき、あの固い頭蓋骨が私の脚に触れることがある。
すると、私の脚がヨレって、進路がほんの数センチだけズレるのだ。
椅子の脚のすぐ横をすり抜けるはずだった私のヒザは激突し、障害物をよけるはずだったつま先がぶち当たる。突然の痛みは、目から涙がこぼれおちそうになるほど利く。



困ったのはトイレだった。とくに小。
「アバウト・シュミット」という映画をご覧になったろうか。
ジャック・ニコルソン演じる初老の凡庸な男は保険会社を定年退職し、愛妻とそれなりに幸福な余生を送るはずだったが、その愛妻は突然死してしまう。
悲嘆にくれていた老ニコルソンは、妻が別の男に宛てたラブレターを見つける。
怒りに震える老ニコルソンは、ある決意をもって、立って便器に小用をいたすのである。
立ってすることを妻に禁じられていたから、オレはン十年も座ってやらざるをえなかったんだ、ザマミロ、と。

幸い、私は立って小をいたすことを禁じられていない。
が、そこにテツが出現した。
トイレにもテツはついてきて、私が便器に向かって放出を開始すると、あの巨大な頭をぬっと便器を遮るように差しだしたのだ。
「ここの水、飲めるか?」と。
放出を急に止めることはできないから、放出物の一部がテツの頭を濡らした。

以来、私は座って小をしている。これはこれで快適であることを知った。
テツはその横で忠実に伏せている。
2009年07月30日(木) No.28

混乱そして恐れ


「じつは、掃除の職員がはじめ、恐くて犬舎に入れないと言ったんですよ」
先日、センターにテツを連れていった際、職員さんがそう明かした。
「大声で吠えながら、ガンガンとガラスにぶつかっていきましたからね」

ほぼ1か月ぶりの里帰りは、センターで予想以上の歓待を受けた。
Perroの用事にお供したにすぎないのだが、主役級のあつかいで、6、7人の職員さんが、テツと会うためにわざわざ外に出てきてくれた。
テツはいじり回されるのが嬉しくてならないらしく、デヘデヘご機嫌で、ゴロンと転がってお腹を見せたりしていた。
みんなからかわいがられていたことをあらためて知った。

そこで、センターに収容された当初のテツの様子について話が出たのだった。
テツは、私が見たときもそうだったが、犬舎のそばに人がくると大声で吠えかかりながら仕切のガラスに飛びついていた。ガンガンと音を立てて激しく体をガラスにぶつけた。何度も何度も。
吠え声の巨大さも印象的だったが、人を怖がらせたのはその表情だった。
上唇がまくれあがり、マズルにシワがよっていた。これは通常、威嚇の表現である。



しかし、いまでは皆が知っているが、あれは威嚇でも怒りでもなかった。
テツはただ混乱していたのだ。
あれほど人が好きで、人と一緒に暮らすことを何にも増して愛する犬が、ある日突然、人と遮断されてまったく知らない環境に閉じこめられたとしたら、空間識失調にも似た混乱を覚えないはずがない。
あるいは名状しがたい恐れを。
テツにとっては、まわりの世界が一夜にして崩壊したのである。

テツは底なしの混乱と恐怖から自らを救いだすために、人とのコンタクトを何よりも欲したのだろう。
犬舎の外にいる人間に、テツはただ自分と一緒にいるように求めたのだ。
その要求の仕方が、いささかフツーでない「テツ仕様」であったことは認めざるをえないが、そこに敵意や怒りがなかったことは間違いない。

人が犬舎に1歩足を踏み入れると、テツは吠えやみ、喜びのジャンプを繰り返した。
鼻面を人の手に当て、舐め、軽くくわえてみようとする。すべて喜びの表現だった。

「変わりましたねえ」とセンターでは口々に言われた。
変わっていない点があるとすれば、それは、絶対のお人善しと、バカ力と、人と離れることに対する恐れの激しさである。
2009年07月29日(水) No.27

忠誠イッテツ


飼い主に忠義を尽くすという点では、もちろん柴をはじめとする日本犬にこそ、その特質が濃い。
以前、保護犬の柴を連れて散歩しているとき、出会った老訓練士からこんなことを言われたと家内が憤慨したことがある。
「捨てられた犬だって? 日本犬はね、飼い主さんが絶対なんだ。飼い主が替わると、決して新しい飼い主には馴れない。咬むことだってある。悪いことは言わない、心を鬼にして処分したほうがいい。だから日本犬の飼い主は、犬より先に死んではいけないんだよ」

「悪いことは言わない」はずの彼は悪いことしか言っていないのだが、仮に一点だけ正しいことがあるとすれば、日本犬の飼い主は、犬だけを置き去りにして逝ってはならないということだろうか。
飼育放棄ほどこの犬種にむごい仕打ちはない。

すぐれた日本犬の、あの毅然と美しい佇まいをもった忠誠心。
それは当然、頑迷にかぎりなく隣接した一徹さである場合が多い。環境の変化には涙が出るほど弱い。
しかし、老訓練士に会うことができれば言っておきたいが、これまで保護した柴で、新しい飼い主さんに心を開かなかった子はいない。



テツの人間に対する姿勢は、そうしたものではない。
日本犬が一方向にのみ狭く開いた茶室の入口(躙り口)のようなものだとすれば、テツは全方向に開放された明るいサンルームといえるかもしれない。
誰に対しても開かれるラブの明るく寛(ひろ)い心。他の犬にでさえ。

人はそこに軽薄や空虚を見たがることがある。
「ラブはいいけど、誰にでもなついて軽薄だろ」「ラブは八方美人で情が薄く感じる」と。
そういうふうに話す人は、ラブと本当の意味で暮らしたことがないのだ。

私は驚嘆したのだが、これと思う相手に対してラブは、隠しポケットからさらに深い愛情表現を取り出してみせる。
「ご主人様、お望みとあれば、もう一段の愛情をお見せしましょう」
ここが終着点と思っていると、まだその先がある。

柴の忠義一徹とも違い、ラブのそれは「相互信頼によって生まれた絆」とでもいうべきものだと思う。
その絆は、ラブの方角からは「無償の愛」と呼んで差し支えのない距離にまで肉薄しており、そんなものが、この世界に存在しているのはほとんど奇跡のように私には思える。

ラブが飼い主から見捨てられたら、いったいどのようなことになるか。
その打撃の大きさを、テツにも見ることができる。
2009年07月29日(水) No.26

人ひと人


いったいコイツはどこまで人が好きなんだろうかと驚かない日はない。
募集コメントに「人が大好きです」と書く程度の、それは次元ではない。全存在を懸けているんじゃないかと思えるほど人が好きなのだ。


▲俺と走るテツ。重力で顔のあちこちが垂れ下がる

深夜に、河川敷で犬仲間と遊んだ。
誰もいない広大な河川敷で、テツは10メートルのロングリードの範囲内で自由に行動できる。
しかし、「さあ、好きに走れよ!」と声をかけても、テツは3点間を行き来することに終始する。
もちろん、ときどきは草むらで臭いをとったり、同行した他の犬にからんだりするのだが、基本的にテツは、私と同行した犬仲間2名――その3人がつくる三角形をしか動こうとはしない。

テツの関心が周囲に広がった広大な河川敷の自然の探索にはなく、身のまわりにいる人のことばかりなのには、まったく驚かされる。
私を除く2人が格別魅力的な人間でないのは、いうまでもない。
それでも、人について歩き、置き去りにされると慌てて追いかけ、人の尻の臭いを嗅ぎ、脚にからみつき、横について顔を見上げ……絶えずその存在を確認している。
セッターのように、行ったきり還ってこないなんてことは金輪際ありえないのである。

私が思うに、ラブ(テツ)の世界は小さな環を形成している。
その環は、人がそのしかるべき位置に嵌(はま)ってはじめて完全なものとなる。
人間の存在が、他のどの犬種よりもラブの世界には不可欠なのである。
人の欠けたミッシングリンクの世界はラブには苦痛でしかない。
十分に――この場合の「十分」は、あなたが「十分」と考える少なくとも3倍は見積もるべきだ――構ってあげることができないのなら、ラブを飼うべきではない。
放置は拷問に等しい行為となる。
2009年07月27日(月) No.25

ラブ


私はラブの飼い主さんについてこんなふうに見ている。
ラブがまだ「悪魔」(06/30の項参照)でいる時期は、いつまでこのテリブルな状態が続くのかをひたすら恐れ、ラブが「悪魔」から脱した後は、ラブとの生活が終わるのをひたすら恐れる。

「(一緒に暮らしているラブがいなくなることを)考えただけで落ち込んじゃう。そのあと、どうやって暮らしていったらいいか……」
似たように言葉をあちこちで聞く。

私は、どうやら後者の心境に近づいているらしい。
テツがわが家を去る日が来ることを考えるのが恐くなりかかっている。


▲テツと散歩する

私はラブ・ファンシャーではない。
私たちは犬種先行で犬を保護しているわけではない。
個人的嗜好として、定評ある大型の家庭犬2種のどちらかを選ばざるをえないことになれば、少し前までは、ラブよりもゴールデンに指を折っていただろう。
いまは、選ぶことはできないのだとわかった。

ショートステイでラブを預かった経験は何度もある。
しかしこれまで、ラブの本当の魅力に気づいていなかったことを知った。
そういうものはある日突然やってきて、こちらの心をワシ掴みにして2度と放さないのだという事実も知った。

ラブの魅力はどこにあるのか。
テツを語ることによって、そのほんの一端でも知っていただければ、私は嬉しい。
飼育放棄された多くのラブのうちの1頭でもが、新しい飼い主さんに迎えられる一助になれば、もっと嬉しい。
2009年07月23日(木) No.24

異種格闘技


けれどもその物理量が、つまりテツの体のサイズが私に与えてくれるものは、こもごもの迷惑をまるごとひっくるめた全部をはるかに上回ると(家内はともかく私は)思っている。

毎日の厳しい共同生活に疲れきった私とテツが木の床の上でだらしなく寝てしまうときがある。
あるとき、そうした眠りから目覚めてみると、私はテツと抱き合っていた。
テツの体温が肌をとおしてじわっと私に伝わってきた。
私は言葉にならない感動を覚えて、部屋のエアコンが効きすぎていた(つまり寒くて互いに抱き合っただけという)事実などは頭から即座に排除された。



体のサイズが近い生き物と、種の壁を超えて、こうして心が通わせられる(ように思える)のは、本当に得がたい体験である。
犬以外のいったいどんな大型動物と、こうやってともに感情をまじえながら暮らしていけるだろうか。
人間とは遺伝子にわずかな違いがあるだけのゴリラやチンパンジーのような霊長類でさえ、同じ家で暮らす人の話は聞いたことがないし、豚や馬、羊とひとつ屋根で暮らせば近所から変人と思われるのがオチだ(いまでも十分思われているわけだろうが)。
同じ人間だって、相手によっては共同生活は願い下げにしてほしいと思うことが少なくない。

唯一、大型犬だけが、異種の大型動物との共生の喜びという奇跡を味わわせてくれる。
いま、上の行の「大型犬」という言葉を「ラブ」に置き換えたい欲求と私は懸命に戦っている。
それほどラブは<テツは>素晴らしい体験なのだ。
だから多少のことはガマンしなければならない——と思わないとやっていけない場合もある。
2009年07月21日(火) No.23

量質転化


物理量のせいで、小型犬では愛嬌で通るようなことも、大型犬がやれば困ったことになる。
少なくとも都市部で暮らす大型犬は、より制約の多い狭い範囲のなかで生きていかなければならない。

物理学に「量質転化の法則」というものがあるそうだ。
転じてあちこちで用いられる。

難解のようで、じつは誰にでもお馴染みの概念である。
たとえば、あなたが大好物のドラヤキを2個食べて「ああ、おいしい」と思う。ところが、それを30個食べようとすれば途中で嫌気がさすに違いない。
同じドラヤキが、2個なら好物でも、30個で嫌悪感を抱くモノに変わったわけだ。
量の大きな変化によって、そのものの質が変わってしまう。これを量質転化と呼ぶ(違うか?)。

テツの大きさは、小さな犬と同じ行動を、人間にとっての「問題行動」に変えてしまう。
私の年齢が、つねに私を「不審な中年男」視させてしまうのと似ている(違うか?)。


▲表情に自信のようなものが生じてきた

センターでの印象とは異なり、テツが吠えることはそう多くなかった。
私が預かった多くのダックスのアベレージと比べると吠える頻度は格段に少ない。
しかし、深い胸に共鳴して発せられる吠え声の音圧レベルは、小型犬の比ではない。
とうてい口では説明できない体感的な差がある。
私が外出するたびに、テツは玄関ドアまでついてきて、閉まったドア越しに万感の思いを込めた絶叫で見送ってくれる。
道を歩く私の背後からこの吠え声が追いかけてくる。
吠える時間はごく短いのだが、近所への印象点は最高レベルだろう。

テツが喜びに尻尾を振ると、座卓に置いてあるものが雪崩を打って床に落ちる。
テツが走ると、床のフローリング材は傷だらけになる。
テツとプロレスごっこをすると、私の手足も傷だらけになる。
先日、床に寝ころびながらテレビを観ていると、先住犬と遊んでいるつもりのテツが(いうまでもなく老いた先住犬には遊ぶ気など毛頭ない)、ジャンプ一番、前脚から私の顔に落下してきた。目が潰れるかと思った。

小型犬なら、手首のスナップで制御できるようなリードの引きも、相手がテツだと全身の力をかけても体ごと引っぱられてしまうことがある。

広い公園に出かけて、テツを思う存分遊ばせてやろうと思った。
私はテツの横にかがみ、リードをロングリードにつけ替えていた。
同行した犬2、人2が、私とテツを放置して勝手に遊びだしたのを見たテツは、
「オレも行くー!」
とダッシュした。
ロングリードの装着はまだ終わっていなかったが、私とテツは私の片手首に回した短いリードによって固く結ばれていた。
そのリードが伸びきった瞬間、私は横っ飛びに引っぱり倒されたのだ。
リードを持っていた手のヒジから簡易アスファルト舗装の、あのゴツゴツとした大型ヤスリのような表面に着地して、少しの距離を引きずられた。
何か骨が当たり皮膚が裂ける音が聞こえるような気がした。
起きあがってヒジを見ると、痛みとともに出血していた。
テツは嬉しそうに駈け戻ってきた。「すっごく楽しいネ」と。
同行の犬仲間はなぜか笑い転げていた。
リード? もちろん放しませんでしたとも。木口小平は死んでもラッパを放さないのだ。

小型犬なら愛嬌でも、テツの場合はことごとく平成の大迷惑に変わる。
テツももう少し文明人としてのマナーを身につける必要はある。
2009年07月21日(火) No.22

悪夢


物理量とは、テツのサイズ、体重、運動エネルギーなどを指している。どれも無用に大きい。

一昨年だったか、センターから引きだしたばかりの大型MIXの問題行動に直面した私が、会の代表者に相談したことがあった。
そのとき代表者は開口一番言った。
「これが小型犬であっても同じように(問題と)感じると思いますか」と。

テツについてこれと同じ問いかけをしてみれば、答えは明らかだと思う。
仮にテツの体重が現在の6分の1だとする。
5kgのテツ……。いまは頭部だけでそれくらいの重さがあるかもしれない。中身が空っぽでなければ。

5kgのテツに出会うことができたら、奇怪きわまりないであろう容姿を除いて、間違いなく誰もが一緒に暮らすのを夢見るような犬であるはずだ。
穏やかでやさしく、人を愛し、何よりも飼い主を愛し、他の犬にもフレンドリーで、決して怒らず、聡明で、小指の先ほどの邪気もない。
ところが、これが30kg(現状では贅肉ゼロのコークスクリューボディで体重30kgだから、ラブ体型に膨らめば軽く35kgに達するだろう)のテツとなると、中身は同じでも評価軸が一転する。

吠え声が近所迷惑、騒々しい、力が強くて危ない、疲れる、暑苦しい、うざい、家が傷む……。



私がソファで寝ていると、テツが「起きて一緒に遊ぼ」とドスンと私の身体の上に飛びのってくることがある。
30kgの物体がおよそ時速10kmで落下してくるのだから、身構えていても、うっと息が詰まる。
テツはそのまま馬乗りの上四方固めに移行して、私の顔を舐める。
というよりは、読んで気分が悪くなったらお詫びするが、私の唇をテツの唇と舌が覆うのである。容赦なくヨダレまみれに情熱をこめて。
私は、気の進まない相手に肉体的に迫られる女性の気持ちが――ほんの一部だが――理解できたような気がした。

あるとき、うたた寝していた私の上に突然(いつも突然だ)テツがのしかかった。
半分しか覚醒していなかった私は、呼吸ができなくなるパニックに襲われ、重くのしかかっているテツをやっとの思いで身体の上から放りだした。
寝覚めは最悪だった。
こみあげる怒りをおさえて、よろよろと立ち上がると、期待に目を輝かせたテツがハアハアと荒い息をして見上げている。「お前、いまの遊び楽しかったナ、次はナニする?」と。
私はこの犬との暮らしを選んだ自分を恨んだ。

ところが、ショートステイのチワワやダックスが同じことをやったとき、その私は「おお、なんとかわいいヤツ」といつも手放しで受けいれていたのだった。
2009年07月17日(金) No.21

物理量




連れ帰ったテツは、予想に反して驚くほどいい子だった。
その日、家にあげた瞬間から、家庭犬として家族にとけこんで暮らせる子だった。
こんなにも愚かに見えて、人の暮らしぶりをよく理解し、まるで隅々まで知っているように振る舞うのには驚かされる。

たとえば、私と家内がだらしなくテレビを観はじめると、「こりゃダメだ……」という感じでさっさと床に伏せてしまう。光る箱の前に座った人間が、何も期待できない無為無能な存在に変身することをコイツは知っているのだ。
あるいは、私がパソコンに向かうと、これほど分離不安が強いにもかかわらず、そっと他の場所に行って寝ていたりする。お邪魔でしょうから、と。

それに、テツが頭を上げてこちらを見るときの目!
願いと寛容と信頼と愛情と甘えが入りまじったようなその色合いに、私の全存在がとろけ落ちそうになる。
間近で接してはじめて知るのだが、その目はまた、じつに表情豊かである。

私はたちまちこの子が好きになった。

もちろん、人間の側から見たとき、問題点はいくつかある。
ほとんどは是正できるものだと思う。
決して変えることのできない最大の問題は、テツに責任のない、たったひとつの点にかかっている。
物理量である。
2009年07月16日(木) No.20

笑顔の別れ


2回にわたって、ラブの預かりと直接関係のないことをだらだらと書いて、いったいなんのつもりだとお思いの向きも多いに違いない。
そのとおりです。

で、結局ナニが書きたかったのかといえば、団体でセンターからの引きだしを担当する人間は、とてもたいせつな存在で、ある適性が求められること(この場合の適性は持って生まれたものというより、自らをその形に削りあげるものだと思う)、たいへんなプレッシャーがその肩にかかること。
そして私にはどうやら、この任は適していないようだということである。
それはグレート・ピレニーズとラブの引きだしをめぐるアレコレをお読みいただければわかると思う。

私がセンターに同行するのは、単なるオブザーバー(観察者)、あるいは雑用係としてであることが多い。
大型犬を除けば、引きだし時の選択判断にほとんど私がタッチしていないのは、団体と私自身の両方にとって幸運だったと思う。

このラブは私が判断した珍しい例であり、以前、私自身が引きだすことを決めた大型のMIXとの、涙がちょちょぎれるような共同生活の記憶が蘇ってきた。



センターにラブを迎えにいった日、職員さんは言った。
「この子とのお別れは、みんな名残惜しがると思いますよ」
へぇーっ、センターでかわいがられていたらしい。
「コテツ」(=小鉄?)という愛称までいただいていたのだという。
この子の面倒を見ていた担当さんなのだろうか、青い作業着を着た女性職員さんも見送りに出てきた。
車に乗せるため、クレートに入れようとすると、ラブは力いっぱい抵抗した。

私たちと「コテツ」の乗った車を見送る職員さん2人の表情は笑顔でいっぱいだった。
新しい人生へのはなむけの笑顔なのか、コイツと別れられてよほど嬉しいのか、私には後者の比率が高いように見えたが、たぶん思い過ごしだろう。
名前は「テツ」に決めた。
2009年07月15日(水) No.19

困難と承知で引き受けるということ


センターに恒常的に足を踏み入れている人間であれば、個人でも団体の担当者でも同じだと思うが、1頭でも多くの犬を引き出したいと切望しないではいられない。
ひりつくような感情といったらいいか。

一方で団体の担当者は、つねに自分たちの能力を客観的に計量しておかなければならない。
自分たちの容器の大きさはどれくらいなのか。そこに、あとどれくらいの水を注ぐことができるのか。
なんとか自分たちの容器の大きさそのものを増すことはできないかとも痛切に思う。

一時の感情によって団体の能力以上の犬を引きだし続ければ、いずれオーバーロードによって活動の持続が困難になる。
といって、自分たちに無理強いをせず、つねに安全運転を続けていくと、今度はボランティアとしてたいせつな何かが涸れていくのである。

理に走れば涸れ、情に流されれば灼けつく。救援活動はその間の比較的狭い空間に自分たちの立ち位置を定めなければならない。



昨年、センターに多頭崩壊の犬がどさっと収容されたことがあった。
私たちがセンターを訪れたとき、譲渡に適していると判断された7、8頭の犬が別棟の犬舎に収容されていた。
すべてMIXだった。
無作為に近親交配が進んでいたらしい。同一の血筋を感じさせる外見の子が多かった。
そのなかから、若く、比較的小型の2頭を引きだすことに決めた。

翌週、センターに2頭を引きだしに行ったときに、職員さんに残りの犬の行き先を尋ねた。
職員さんの表情は明るかった。
「ああ、××さんが出してくださるそうです。いっそ(残りの)全部をウチで面倒見ると言って」

私はこのときほどその団体の腕っ節と情熱に畏敬の念を覚えたことはなかった。
と同時に少し驚いたのである。
ほんの数か月前に、別の劣悪環境多頭崩壊を手がけたこの団体が、多数の犬を引き受けて、たいへんなご苦労があったことを知っていたからだ。

私たちが引きだした2頭に――間違いなく前飼い主の劣悪な飼育環境に起因する――共通の問題行動があることが、間もなくわかった。
何か月かがたって、たまたまその団体の代表者と出会ったとき、話は多頭崩壊の犬たちの問題行動に及んだ。

代表者の女性は小柄で、やさしい声の持ち主だった。苦笑して言った。
「ものすごく苦労することになっちゃって……。ああ、もう多頭崩壊はこりごりです」

だが私は知っている。
この女性とその団体が、もう一度同じ状況に出あえば、躊躇なく犬を引きうけるであろうことを。
大きな困難が予想されるとしても、それは変わらない。
2009年07月13日(月) No.18

センターから犬を引きだすということ


ここで、脇道に逸れるのを承知で、センターから犬を引きだす「仕事」について書いてみたい。
コトの性質上、どうしても抽象的な話になるのはご勘弁いただきたい。
ラブのことだけ読みたいのに、なんと余計な――と正当にもお感じの方は、2回ほど飛ばしてください。

センターから犬を引きだすのはタフな仕事だと思う。
多くの人が見落としているのは、あそこで私たちは救うより多く見殺しにしているという事実である。
引きだす数より、心だけを残して置き去りにする数のほうがはるかに多い。

センターを訪れた初日にその事実に突きあたって繊細な心が折れてしまうボランティアもいる。
それを乗り越えることができた人でも、センターに通っているうちに、心の底に澱(おり)のようなものが静かに積もっていることがある。


▲何かをくわえて走るのが大好きだ

事故や戦場、犯罪などの現場から生きのびた人がPTSD(心的外傷後ストレス障害)で苦しむ事実はご存じだと思う。
最初のショックから立ち直った後に、「私だけなんで生き残ってしまったのか」「見殺しにしてしまった」「どうして救うことができなかったのか」といった感情がジワジワと心をさいなんでいくのだという。
PTSDとセンターの経験を同一の次元では語れまい、絶対に。
しかしそれとまったく違うものではない何かが、現在進行形で1日ごと着実に、微細な塵(ちり)のようにして心を――最初の希望を――覆っていくのを感じないではない。
私は信じているのだが、優秀なボランティアの心には溶岩ドームのような意志の隆起があって、そこだけはどんな塵にも埋もれずに周囲を見わたして屹立できるのだ。

私自身は、自分の感情を上手に遮断して、現実と折り合いをつけることができると不遜にも思っていた。
ある日、センターの小型犬犬舎でマルチーズだったかポメラニアンだったかのケージを覗きこむまでは。
老犬だった。
死がその先に見えるほどの高齢になると、犬の顔つきは、あらゆる俗塵が流れ落ちたように透明になる。
ケージを覗きこむと、犬の澄んだ目がじっと私を見返していた。
怒りも悲しみも恐れもなく、ただ真っ直ぐ、私の心の深奥を照らすように、その目は問いかけているようでもあった。
「なぜ?」――と。
耐えられなかった。私は逃げるようにそのケージの前を立ち去った。

その犬を引きだすことはしなかった。
10歳を超える高齢犬を引きだすことを私たちは原則的にしていない。
そうやって活動を続けている。
救けなかった犬の数のほうがずっと多い。
2009年07月10日(金) No.17

コペ転


臨海学校前の小学生のように、大型犬2頭を迎える興奮と不安と期待の数日をすごした。それは、期待より不安により多く傾斜したものだったが。
数日後、センターからPerroの責任者に電話があった。
グレート・ピレニーズはほかの団体に譲渡されることになりました、と――。

私のブームは、突如として、有無をいわせぬかたちで、終わった。
ピレニーズは消え、手元に残ったのは、あの暑苦しいラブだけとなった。

呆然と落胆した。


▲私の腹の上に乗るラブ――おっとヨダレが

しかしまた数日がたつと、これはこれでよかったのではないかという気がしてきた。
どこかホッとした自分がいた。
ピレニーズが行った団体は大型犬の経験を私たちよりずっと積んでいるし、私が「知的で繊細」と見たピレニーズのあの眼は、じつは気むずかしさと狷介を見誤っただけかもしれない。
そもそも私たちには荷が重かったのだろう。
それになんといったって、あのラブがいるじゃないか。
ラブという犬種の根の善良は通販ジュエリーのように100%鑑定保証書つきだし、現にいいヤツだった。
でもなぁ……。
悪相で吠えかかっている姿が頭に浮かんだ瞬間、ふたたび落胆に舞い戻ることも正直あった。
2009年07月10日(金) No.16

総力戦


気乗り薄ではあったが、私ひとりで犬舎に入ると、憑きものが落ちたようにラブは吠えるのをやめた。
喜色満面という言葉でしか表現できないほど大喜びしていた。
犬舎への人の来訪が嬉しくてたまらないらしい。立ち上がってピョンピョン私のまわりで跳ねとぶ。

ふつうならここで体に跳びかかってユニクロ謹製の私の大事な服を汚すところだが、このラブはけして私の体に手をかけようとはしない。
甘噛みの素振りもするが、これまた、けして私の肌に強く歯を当てない。せいぜい、ヨダレがかかるくらいなものだ。
おそらく訓練による強い抑制がはたらいているのだと思った。

外に向かって吠えかかっていたときの形相とは一変して、誰よりも大きなラブの顔には、善良そうで、だらしないほど無垢な喜びの表情が浮かんでいた。
なんだ、いいヤツじゃないか。
ただ、見るからに身体からジャブジャブ溢れている体力と、吠え声の巨大さに、かなりの苦労を強いられるのは間違いないなかろうという印象を受けた。

私が犬舎から出ると、またすさまじい形相に戻って吠えた。


▲引き出し当日に屋外で全身シャンプー――水をかけられるとご満悦だ

貴族的高雅のグレート・ピレニーズを引きだそうと決める瞬間に、田夫野人(でんぷやじん)ふうの朴訥なラブが私の頭に割りこんできたのには、そういう事情があった。

ピレニーズを救けることができる以上、善良一色だと知ってしまったラブを――どんなに暑苦しい存在であっても――見殺しにできなくなっていた。
本当のところ、たわいもなくピレニーズの美に転んでしまった自分自身に心がとがめたのかもしれない。

Perroの責任者に「ラブも出してやろうか……。大きいのが2頭、大丈夫かな」とおそるおそる声をかけた。
大型犬2頭を引きだす余力がはたして私たちの会にあるのか。自信はなかった。
Perroの責任者は少しもためらわずに言った。
「出しましょう。なんとかなりますよ。総力をあげてやればいいんですから」

ここがこの女性のもつ希有な資質なのだが、コトにあたって、けして困難を恐れない。人に前向きのパワーを与える。
問題は、そのあげるべき「総力」が、いつのまにか私ひとりの総力にならないかという点だった。
2009年07月09日(木) No.15

別の犬


ラブを引きだすと決めたとき、世田谷のセンターで私の関心はむしろ別の犬にあった。

その日、いちばん奥の犬舎に、純白の堂々たるグレート・ピレニーズがすっと立っていた。
体重50kg以上はあろうかという巨体だった。
ゆったりとした貴族的な美しさにまず心が惹かれたが、印象的なのはその目だった。なんともいえない知的な繊細さが感じられた。
同行していたPerroの引き出し責任者の女性が犬舎に入って、後ろから急に抱きすくめても、迷惑そうに振り返るだけで、攻撃性はいっさい感じさせなかった。

「この子を出そうか」とPerroの責任者と顔を見合わせた。
そのとき、3つ隣の犬舎で盛大に吠え声をあげているラブのことが小さな痛みとなって心を刺したのである。


▲センターから引きだした当日——まだ混乱から抜けきっていない

じつはその日が、ラブとの2度目のご対面だった。
とっくに期限がすぎているのそのラブには、どこからもオファーは入っていなかった。
「お前、まだここにいるのか。そのご面相と吠え声じゃなぁ……」

10日ほど前、初対面のソイツは、犬舎の分厚いガラス越しに、通路にいる私たちに向かって恐るべき形相で吠えかかってきた。すさまじい吠え声だった。口からはヨダレがはじけ飛んでいた。
威勢のいい兄ちゃん。ま、元気でな――と、犬舎の前を素通りした覚えがある。
吠えかかってくる大型犬の♂を好んで引き出そうと考える人間はあまり多くない。

そしてこの日もまた、ラブはすごい剣幕で吠えかかってきた。
しかし職員さんは、コイツに敵意や攻撃性はいっさいないのだと話した。
エライのがきたと当初は思ったが、よく知れば全然いい子だった、犬舎に入ってみますか……と。

職員さんの言葉は正しかった。
2009年07月01日(水) No.14