俺 流  [ Perro Dogs Home 預かり日記 ]

感情




ボニーはアレルギーの気があるため、1週か2週に1度シャンプーで全身を洗っている。
全裸の私と風呂場に入って、全身を洗うのである。
いうまでもなく、ボニー以外、私とそういうことを好んでする人間はいない。

いつだってボニーは喜んで風呂場についてくる。
シャンプーが好きなわけではない。
ただ、人と一緒にいて、一緒に何かをするのが好きなのである。
好きなどころか、全身全霊、力いっぱい好きなのだ。

風呂場で、最初に私がシャワーを浴びると、その横でじっと立っている。
「なんですか、なんですか、その楽しそうな遊びは」と。
激しい飛沫を浴びようが気にしない。
ときには、シャワーヘッドからの放流をすすんで顔で受けてみたりする。

人がやることを、同じ場にいて共有したいのだ。
体を洗われるのはけっして好きではないはずだが(ときどきバスタブのプラスチック蓋の上に避難したりする)、人がそれをやるならガマンできる。





最近読んだ複数の書物に犬と霊長類についてのおもしろい記述があった。
チンパンジーなど霊長類と犬の知能を各種のテストで調べると、もちろん霊長類の知能のほうがずっと上回っている。
しかし、人の感情への共感という点では、犬がはるかに上で、むしろ犬だけにその能力が認められるといってもいいほどだというのである。

人の感情への共感とは?
あなたは思い当たらないだろうか。
人が悲しみに涙を流せばその横で不安げに寄り添い、人が楽しく遊べばその何倍もの喜びで全身を満たして遊びまわる。
あるいは、人の顔をのぞきこんで感情をうかがう。

これはほとんどの犬に備わるものかもしれない。
だが、その特質がとくに強いのがラブであり、ボニーであると私は思う。
ボニーと暮らすと、こちらの勝手な錯覚であるにせよ、自分たちの感情を分かち合うことができるような気さえする。
じっと話しかければ、深い包容力をもって人のあらゆる感情を受けいれ、透明に溶解してくれるような気がする。

だから家内は、私ではなく、ボニーに内心を告白するのだ。

2011年11月21日(月) No.123

よきもの




あまりに日記をサボって、前回に続いてなにを書こうとしていたのかも忘れてしまった。
サボリつづけている間に、何人もの方から「日記どうなってるんですか」と尋ねられ、「日記書かないのは、ボニーが手放せないからじゃないの」などと言われることもあった。
ボニーになにかあったのかと心配した人はいても、私の健康を気づかってくださった人徳ある方は、残念ながらひとりもいなかった。
この際だからいっておくが、まったく健康です。

そうだ、前回、私が書こうとしてたのは、ボニーに備わっているほとんど天賦と呼ぶべき能力のことだった。

家の中で暮らすボニーは、ほぼ理想的な伴侶である。
単にマナーがいいというだけではない。
家内は「思うことをいつもボニーに話しかけていた。この子がいなくなったら、どうしていいかわからない」などと言う。
日本語をよく解する立派な人物がすぐ近くにいるというのに、これだ。

ボニーには――多くのラブにはといいかえてもよい――人が人に求めながら、ついぞ得られない何かが感じられる。
思わず人が心をうち明けたくなるような何かが。
それはおそらく、ラブに特徴的に与えられた能力のひとつであり、起源をたどれば、前回書いたラブに私が感じたのととてもよく似た「よきもの」から出発しているように思えてならない。

じゃあ、その「よきもの」とは?
それをラブの「根の善良さ」などと書いてしまうと、あまりに平面化しすぎて、なにかが少し違う気がするのだ。



2011年11月21日(月) No.122