俺 流  [ Perro Dogs Home 預かり日記 ]

コリー(3)




コリーがいた当時の実家にはかなり広い庭があった。
ぐるりを塀で囲んであったが、破れめがあちこちにできていた。木戸が開きっぱなしになっているようなこともあった。
コリーがいつの間にか外に出てしまうことがしばしばあった。
半世紀近く昔だった当時は、車がほとんど走っていなかったし、いまとは人の密度も全然違った。
周囲には田んぼと畑と空き地と雑木林のほうが住宅より多かった。
母が探しに出ると、コリーはいつも駅前の交番に保護されていたという。

「人が大好きだから、あの子はかならず人の後をついていった」と母は言う。
たいていの人は商店もある駅のほうに向かって歩くから、コリーは決まって駅の近くにたどりつく。そのうち、コリーを見つけると交番から電話がかかるようになったという。のんびりした時代だった。
だが、コリーは車にはねられて死んだ。

母が「かわいそうなことをした」と何度でも嘆くのには、そういう事情があった。
コリーにとっては災難と呼ぶほかのない飼い方をしたうえに、交通事故で死なせたのである。「お前んちが殺したも同然だろう」と言われれば、そのとおり返す言葉もない。


▲センターから引きだすときのユーリ

センターの犬舎でユーリを見たとき――センターでは当初シェルティーの子犬と考えていたようだが――この子がもしコリーならPerroで出せないものかと思った。
センターからの帰り際までくずぐずと逡巡したあげく、「あの子を出せないかなぁ」と同行していた引きだし責任者に尋ねた。
東京都のセンターからのPerro引きだし責任者は、基本的に、センターの犬舎を訪ねた時点で収容期限の切れている犬がいれば出すという方針である。
期限前に犬種優先で出すようなことは、あまりしない。
今回は、半ば私の個人的な「私情」によって、コリー(と思った子を)を引きだすことになったようなものである。

コリーを引きだしたいと考えたのは、贖罪の意識などではない。
いや、それもいくぶんはあったかもしれないが、私は小さいころの自分が見たもの、見たと信じたものを確かめたかった。
コリーのやさしさを、やさしい目を、すくっとした立ち姿を、絡まりやすい被毛を。
そして、その子に自分の力を尽くしたかった。尽くさなければいけないと思った。
2011年03月06日(日) No.111

コリー(2)



▲春一番に吹かれて歩くユーリ

コリーがやってきたとき私は小学校低学年だったろうか。詳しい記憶は抜け落ちている。

老母にコリーのことを尋ねると、老いと病みによって思考力のおぼろになった頭が突如痛みで覚醒したように思いがけず強い口調になって返ってきた。
「そのことはもう思いださせないで。あの子はとてもやさしい、いい子だったのに……。本当にかわいそうなことをしてしまったのよ」
手で私の言葉をさえぎり、深いところからの思いを吐き出すようだった。
「貴族のような子だった。ウチがあの子にふさわしくなかったの」
私に似て万事に冷笑的なきらいのある母の口からこれほど真率な言葉を聞いたことに私は驚かされた。

ここで、どうしても故人である父親のことを書かなければならない。
父親は「自然状態」を強く好んだ。自然の生命力、活力、あるがままに湧きあがるような力の息吹を。
自らもあらゆる意味で屈強な人だった。しねしねした弱さを嫌った。
大型犬を好んで飼った。
私が記憶しているだけでも、秋田犬、コリー、エアデール・テリア、セッターがほとんど切れ目なく実家にやってきた。
飼育法も「自然がいちばん」である。
当時、実家には柵の設けられた大きな犬舎もあったが、庭で終日フリーにすることが多かったように思う。
ほとんどほったらかしだった。



やってきたコリーは、天才ラッシーではなかった。
当たり前の話だが、なんの訓練もしていない子がなにもできなくて当然である。

私の記憶に残っているコリーは、いつも被毛が幾重にもからまって汚れていた。とくにお尻のまわりがひどかった。
私はいま、恥をしのんでこの文章を書いている。
この家は、コリーを、犬を、飼うべきではなかったのだ。飼ってはいけなかった。
ただし、公平のために言うのだが、父親は自分の子どもも犬と同じような心で扱った。
幼い子どもたちが、鶏小屋(大昔に実家にあった。私もときどき卵を取りに入った)で鶏と一緒に鶏糞にまみれている姿を見て喜ぶような人だった。

私がいちばん心に残っているのは、いつも少し遠くを見ているようなコリーのやさしい目だった。そして立ち姿。いつもすくっと直立していた。
子どもが何をしても決して怒らなかった。昭和30年代のシツケの行き届かないクソガキが何をしても、だ。
存在そのものが、どこまでも深くやさしかった。私の犬に対するイメージは、およそこのコリーによってかたちづくられたのではないかと思う。
2011年03月06日(日) No.110

コリー(1)



▲まだ幼いユーリ

「いまの若い人はコリーを知らないのよ」
家内が重大発見のように言った。
「名犬ラッシーの犬といったらわかるんじゃないか」
「違うのよ、名犬ラッシーだって知らないんだから」

私たちの世代にとっては少なからぬ驚きであるが、いつの間にか、コリー(ラフ・コリー)はきわめてレアな犬種になっていた。
『名犬ラッシー』すら知らない人が増えている。
この文章を書くにあたってJKC(社団法人 ジャパンケネルクラブ)のサイトで昨年(2010年1月〜12月)の犬種別登録数を調べて、愕然とした。
1位はプードルで、トイからスタンダードまであわせて92,036頭。これにチワワ、ダックスが続く。
大型犬では、ゴールデンが13位に入って6,935頭、ラブが15位で5,307頭。
リストのずっと下、59位になってようやく「ラフ・コリー」の名が見える。
サモエドよりひとつ下の順位にあって、頭数は122頭。
ボルゾイの約4分の1強、ミニチュア・ブルテリアの約半分、ゴールデンと比べれば、じつに50分の1以下である。



コリーが「人気犬種」だった時代を私は知っている。
公園で知り合った犬飼いの人たちや会のメンバーと話すうちに、「コリー経験」が世代を分かつ分岐点になっていることに気づいた。
「コリー、大好きなんですよ。子どものころコリー飼ってたんです」
「コリーでしょ。小さいころ、知り合いで飼っている人がいたから」
そういうふうに懐かしさいっぱいで話すのは、皆さん、推定50歳以上の方々。
昭和30年代前半から放映された『名犬ラッシー』(日本では'57〜'66年に放送)をテレビで見た経験をお持ちの世代である。
さらに筋金入りになると(というより少し年齢が上がると)、『名犬リンチンチン』(日本では'56〜'60年に放送。騎兵隊の少年とシェパードが主人公)もよくご存じである。

『名犬ラッシー』は日本でも大人気ドラマとなった。
そこで見たコリーという犬には、誰もが驚いた。
当時の日本の犬は、たいてい小さな犬小屋の脇で繋留飼いされていた。犬は犬、人は人。そんな時代であり、考え方だった。
ところがラッシーは家のなかに平気であがりこみ、床で寝そべったり、家族と一緒になって暮らしているのだった。
しかも、なぜしゃべれないのか不思議なほど人の言葉を理解し、人の要求にはやすやすと従い、それどころでなく、家族のたびかさなる危機を救ったり、危険を報せたりする。
そして、誰に対してもやさしく、悪人は容赦なく懲らしめるのだ。まるで絶対善が犬にかたちを変えたような存在だった。

コリーというのはよほどすごい犬種なのだろう、コリーを飼えば、みんなこんな素晴らしい体験ができるのかと考えたところに、大きな誤りがあったのだが、当時はほとんど誰も気づかなかった。
それらしく見せるためのカット割りの工夫や、テレビ画面の外で訓練士が誘導しているという事実を、思いつく人はよほどマレだったろう。犬を訓練するなどということは、当時の日本にあっては、警察犬のような特殊な世界でのみのデキゴトと考えられていたと思う。

いまの犬種ブームなどと比べればじつにささやかなものにすぎないが、日本でもコリーの小ブームが起こった。
そうしてある日、私の実家にもコリーがやってきたのだった。
2011年03月06日(日) No.109