俺 流  [ Perro Dogs Home 預かり日記 ]

混乱そして恐れ


「じつは、掃除の職員がはじめ、恐くて犬舎に入れないと言ったんですよ」
先日、センターにテツを連れていった際、職員さんがそう明かした。
「大声で吠えながら、ガンガンとガラスにぶつかっていきましたからね」

ほぼ1か月ぶりの里帰りは、センターで予想以上の歓待を受けた。
Perroの用事にお供したにすぎないのだが、主役級のあつかいで、6、7人の職員さんが、テツと会うためにわざわざ外に出てきてくれた。
テツはいじり回されるのが嬉しくてならないらしく、デヘデヘご機嫌で、ゴロンと転がってお腹を見せたりしていた。
みんなからかわいがられていたことをあらためて知った。

そこで、センターに収容された当初のテツの様子について話が出たのだった。
テツは、私が見たときもそうだったが、犬舎のそばに人がくると大声で吠えかかりながら仕切のガラスに飛びついていた。ガンガンと音を立てて激しく体をガラスにぶつけた。何度も何度も。
吠え声の巨大さも印象的だったが、人を怖がらせたのはその表情だった。
上唇がまくれあがり、マズルにシワがよっていた。これは通常、威嚇の表現である。



しかし、いまでは皆が知っているが、あれは威嚇でも怒りでもなかった。
テツはただ混乱していたのだ。
あれほど人が好きで、人と一緒に暮らすことを何にも増して愛する犬が、ある日突然、人と遮断されてまったく知らない環境に閉じこめられたとしたら、空間識失調にも似た混乱を覚えないはずがない。
あるいは名状しがたい恐れを。
テツにとっては、まわりの世界が一夜にして崩壊したのである。

テツは底なしの混乱と恐怖から自らを救いだすために、人とのコンタクトを何よりも欲したのだろう。
犬舎の外にいる人間に、テツはただ自分と一緒にいるように求めたのだ。
その要求の仕方が、いささかフツーでない「テツ仕様」であったことは認めざるをえないが、そこに敵意や怒りがなかったことは間違いない。

人が犬舎に1歩足を踏み入れると、テツは吠えやみ、喜びのジャンプを繰り返した。
鼻面を人の手に当て、舐め、軽くくわえてみようとする。すべて喜びの表現だった。

「変わりましたねえ」とセンターでは口々に言われた。
変わっていない点があるとすれば、それは、絶対のお人善しと、バカ力と、人と離れることに対する恐れの激しさである。
2009年07月29日(水) No.27

忠誠イッテツ


飼い主に忠義を尽くすという点では、もちろん柴をはじめとする日本犬にこそ、その特質が濃い。
以前、保護犬の柴を連れて散歩しているとき、出会った老訓練士からこんなことを言われたと家内が憤慨したことがある。
「捨てられた犬だって? 日本犬はね、飼い主さんが絶対なんだ。飼い主が替わると、決して新しい飼い主には馴れない。咬むことだってある。悪いことは言わない、心を鬼にして処分したほうがいい。だから日本犬の飼い主は、犬より先に死んではいけないんだよ」

「悪いことは言わない」はずの彼は悪いことしか言っていないのだが、仮に一点だけ正しいことがあるとすれば、日本犬の飼い主は、犬だけを置き去りにして逝ってはならないということだろうか。
飼育放棄ほどこの犬種にむごい仕打ちはない。

すぐれた日本犬の、あの毅然と美しい佇まいをもった忠誠心。
それは当然、頑迷にかぎりなく隣接した一徹さである場合が多い。環境の変化には涙が出るほど弱い。
しかし、老訓練士に会うことができれば言っておきたいが、これまで保護した柴で、新しい飼い主さんに心を開かなかった子はいない。



テツの人間に対する姿勢は、そうしたものではない。
日本犬が一方向にのみ狭く開いた茶室の入口(躙り口)のようなものだとすれば、テツは全方向に開放された明るいサンルームといえるかもしれない。
誰に対しても開かれるラブの明るく寛(ひろ)い心。他の犬にでさえ。

人はそこに軽薄や空虚を見たがることがある。
「ラブはいいけど、誰にでもなついて軽薄だろ」「ラブは八方美人で情が薄く感じる」と。
そういうふうに話す人は、ラブと本当の意味で暮らしたことがないのだ。

私は驚嘆したのだが、これと思う相手に対してラブは、隠しポケットからさらに深い愛情表現を取り出してみせる。
「ご主人様、お望みとあれば、もう一段の愛情をお見せしましょう」
ここが終着点と思っていると、まだその先がある。

柴の忠義一徹とも違い、ラブのそれは「相互信頼によって生まれた絆」とでもいうべきものだと思う。
その絆は、ラブの方角からは「無償の愛」と呼んで差し支えのない距離にまで肉薄しており、そんなものが、この世界に存在しているのはほとんど奇跡のように私には思える。

ラブが飼い主から見捨てられたら、いったいどのようなことになるか。
その打撃の大きさを、テツにも見ることができる。
2009年07月29日(水) No.26