俺 流  [ Perro Dogs Home 預かり日記 ]

分・離・不・安


飼い主から突然見捨てられた経験は、テツに強烈な教訓を残したようだ。
人はお前を置いて逃げ去る、決して人から離れてはならぬ、と。
いわゆる「分離不安」がテツに生まれた。

テツはわが家にやってきて、私への熱烈なストーカーになることを決意したようだった。
以来、強固にその決意を守りとおしている。
とくに最初のころは、誇張でなく、私から1ミリも離れたがらなかった。
私の行くところはどこにでも、影のようについてくるテツの姿があった。

風呂に入れば脱衣場で張っているテツの輪郭が曇りガラス越しにぼうっと浮かび、トイレにも、パソコンに向かうときも、テレビを観るときもテツは私から離れようとしない。
なんとかわいい……と思われるかもしれないが、小型犬ならともかく、30kgもある巨体がストーカーのように一心に私の後追いする姿は、滑稽でどこか哀しく、なによりも暑苦しい。

人の歩行がいかにセンチ単位の精密な動きにもとづいているのかは、テツが私に教えてくれたことのひとつである。
私が歩くとき、テツは私のヒザのすぐ裏あたりにいつも頭をつけて後追いしている。
ときどき、あの固い頭蓋骨が私の脚に触れることがある。
すると、私の脚がヨレって、進路がほんの数センチだけズレるのだ。
椅子の脚のすぐ横をすり抜けるはずだった私のヒザは激突し、障害物をよけるはずだったつま先がぶち当たる。突然の痛みは、目から涙がこぼれおちそうになるほど利く。



困ったのはトイレだった。とくに小。
「アバウト・シュミット」という映画をご覧になったろうか。
ジャック・ニコルソン演じる初老の凡庸な男は保険会社を定年退職し、愛妻とそれなりに幸福な余生を送るはずだったが、その愛妻は突然死してしまう。
悲嘆にくれていた老ニコルソンは、妻が別の男に宛てたラブレターを見つける。
怒りに震える老ニコルソンは、ある決意をもって、立って便器に小用をいたすのである。
立ってすることを妻に禁じられていたから、オレはン十年も座ってやらざるをえなかったんだ、ザマミロ、と。

幸い、私は立って小をいたすことを禁じられていない。
が、そこにテツが出現した。
トイレにもテツはついてきて、私が便器に向かって放出を開始すると、あの巨大な頭をぬっと便器を遮るように差しだしたのだ。
「ここの水、飲めるか?」と。
放出を急に止めることはできないから、放出物の一部がテツの頭を濡らした。

以来、私は座って小をしている。これはこれで快適であることを知った。
テツはその横で忠実に伏せている。
2009年07月30日(木) No.28

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